アメリカでテクニカルプログラムマネージャーとしての経験を積み、人事権を持つマネージャー職についたものの、上層部と部下との板挟みに課題を感じていた白井さん。その後、シリコンバレーで起業され、一層飛躍された白井さんに、BBT大学院入学までの経緯や学び、起業についてうかがいました。

プロフィール

白井雅子(しらい まさこ)さん

2009年ビジネス・ブレークスルー大学大学院(以下、BBT大学院)入学、2011年修了。サン・マイクロシステムズにてエンジニアリングマネジャーとして勤務後、ポスティー二社へ転職(後にGoogle)。ヴイエムウェアへの転職を経て、マーケティングコミュニケーションのグローバル化支援を事業とするKotonoha Tech LCCを創業、現在に至る。在米32年。

米企業でエンジニアリングマネージャーとして、経営陣の巻き込みに苦労した過去


ーー白井さんはアメリカ在住32年で、大手企業やベンチャー企業でさまざまな経験をされてこられました。そのあたりのことをうかがえますか。

アメリカではテクニカルプログラムマネージャーとしてサン・マイクロシステムズで働き、その後マネージャーに昇格しました。

2006年にレイオフされたのですが、わりと景気がよかったので、すぐにスタートアップのポスティー二社に就職しました。電子メールやWebサイトのセキュリティ関連事業を行なっていた会社で、後にGoogleに買収されています。

私が入社した頃はまだ小さい会社でしたが、海外にも市場を広げたいということでお声がけいただき、ほとんどゼロからローカリゼーションのチームを立ち上げました。

その後、ソフトウェアの国際化を担当するチームのマネージャーとして、ヴイエムウェアという会社に入社しました。ローカリゼーションのベース部分の開発という仕事内容が、サン・マイクロシステムズで担当していた仕事と似ていて、やりたいと思ったのが転職の理由です。

しかし、たまたま私の所属していた部門は社内政治が激しく、上層部と部下の板挟みになって苦労しました。

当時の私は、上層部の意思決定の理由や背景が理解できず、反感さえ持っていました。また、部下は非常に優秀で顧客第一だったため、お客様を軽視するような上層部の決定には私以上に反抗的でした。

彼らは正論を言ってるのですが、表現が直接的なので共感を得られません。また、私は部下の言い分が理解でき、それを代弁する立場でしたが、そうすると上からの風当たりは強まりました。

私は世渡りがうまいわけでも、カリスマ性があるわけでも、飛び抜けて優秀なわけでもなく、ツッコミどころ満載のマネジャーだったと思います(笑)。

そのため、現場のエンジニア、経営陣を巻き込んで正しいことを行えませんでした。結局、簡単にいうと社内政治に疲れてしまい、ヴイエムウェアを退職したのです。

MBAを学び、顧客、経営者視点に立った提案ができるようになった

ーー苦しいご経験だったとお察しします。BBT大学院へ入学されたのはいつ頃ですか?

ヴイエムウェアを辞めた後の2009年です。いろいろとお声がけいただいて仕事自体はありましたが、サン・マイクロシステムズにいた頃からエグゼクティブの意思決定について勉強したいと思っていました。ヴイエムウェアを辞めた時に、「今しかない」と思ってBBT大学院の門を叩きました。

ーーアメリカの会社は経営判断がドラスティックで、社内政治が激しいという話も聞いたことがあります。

それは会社や部署によりますが、本当に優秀な人は、会社のため、お客様のためになるようにどういう場合でもリードしていけるのだと思います。残念ながら、当時の私はそこまでできませんでした。

BBT大学院で学びながら、自分の過去の失敗などについて考えると、「あの時、こうすればもっとよかったのかもしれない」といろいろ気づくことがありました。

正論であっても、それを伝えるためには、根回しをしたり支持してくれる人を増やしたりして、皆笑顔で前に進めるようにする必要があったと思います。

ーーBBT大学院に入ってから気づいた、具体的な例を聞かせていただけますか?

思いついたところでは、ポスティーニでの例があります。

私が入社した当時、製品の一部として証拠保全のためにEメールなどの文書の保管と検索を可能にする機能があったのですが、日本語のEメールが検索できないという問題がありました。
また、スパムの疑いのあるEメールを隔離して安全な環境で表示するという機能では、日本語のEメールが正しく表示できないというような状態でした。文字コードの違いにより、日本語が文字化けしてしまうのです。

直属の上司や副社長レベルまではそういう状況をよくわかってくれていて、相談すると、「社長に話してみれば」ということになりました。

しかし、社長に状況を説明すると、「では、日本人は英語でメールを書けばいいじゃないか」と言われたのです。そういう社長に対して、当時の私は何も言う術がなくて、うまく説得できませんでした。

ーー厳しい戦いですね。

まわりの人たちは、日本語の構造がどうなっているのかなどの技術的な詳細はわかりませんでしたが、日本を含むアジアに進出したいという野心がありました。それで私に期待して応援してくれていましたが、「こう言えばいい」「社長のこういうところをつくといい」のようなアドバイスはなかったです。

後になってBBT大学院で学び始めてから、ファクトをリサーチして提示したうえで、提案が通るようにプレゼンができればよかったと思いました。

ーーどの授業を受けて、そう思うようになったのでしょうか?

「問題解決思考」の授業です。お客様の前にファクトを提示するとか、0か100かでなく段階的に進めていくとか、オプションをいくつか揃えて相手に選ばせるとか、そういう営業的な考え方を教えていただきました。

その授業を受けて、もっと相手の立場に立って考えるべきだったと思いました。言い方を変えると、私のほうが全く相手の立場に立ててなかったのですね。

エンジニアリング的に正しいという、それだけで勝負しようとしていたので、それだと人はついてこないことがわかりました。

ーーそこで納得できたということですね。他に印象に残っていることはありますか?

そのほかに、本科目では箇条書きにする時にしてはいけないことを、繰り返し教えていただいたのを覚えています。

例えばリスト化する時は、「りんご、みかん、お皿」ではなく、「りんご、みかん、かき」のように性質を同じものにしないといけないと何度もおっしゃっていました。それが、今の仕事に非常に役に立っています。

マーケティング的な考え方ということでは「RTOCS」(※註2)も役立っています。

それまでは経営者の立場に立って考えるということを、一度もしたことがありませんでした。「どうして、こんなことをするのだろう」と批判するばかりで、当事者的な考え方というのがなかったのです。

RTOCSの授業では経営者の立場で考えることを繰り返し練習するので、よい解決策が出てくるかどうかは別として、それが癖になり身につきました。

他にも「環境変化と企業改革」という講義では、半導体事業における経営戦略を中心としたもので、大企業で変革を起こすということがどういうことなのかを学びました。

変革の規模やインパクトは甚大で、これほどの内容をリーダーレベルから実務レベルに至るまで詳細に聴くことができる講義はめったにないと感じました。成功だけでなく貴重な失敗から学ぶ体験を、終始一貫穏やかな口調で惜しげもなく披露されたご講義は、その一言一言が心にしみるようでした。

また、講義全体を通じて、職務や責任に対して常に真摯な態度で臨まれる森本先生の生きざまを見せていただいたように感じ、はっとさせられました。自分もそうあらねばと身がひきしまる思いでした。

BBT大学院のビフォーとアフターでは、いろいろなものに対する私の観点が全く変わったといえます。

編集者註
(※2)「RTOCS(アールトックス)」:「Real Time Online Case Study」の略称で、BBT独自のケースメソッドです。答えの出ていない「現在進行形の企業課題」をケースとして扱い、当該企業に関する調査・分析・戦略考案を自ら実施します。大前研一学長の戦略系科目において、卒業までに2年間毎週1題=合計約100題を繰り返し行います。

(※3)「環境変化と企業改革」:森本泰生教授担当科目。

20年抱いていた日本の会社を応援したいという想い。それを具現化して、海外起業

ーー起業されたのは、BBT大学院に在学中の時だったのでしょうか?

そうです。入学したのが2009年で、2010年に起業しました。

ーーアメリカでプログラムマネージャーやマネージャーとして働き、その後BBTで学びながら起業されたとうかがうと、一般的な日本人には相当ハードルが高く感じられるのですが、何か大きな心境の変化があったのですか?

心境の変化というよりも、いつも日本の会社やビジネスを応援したいという想いがあったといえます。


アメリカの会社にいてずっと気になっていたのが、日本の支社の人たちが本社に対して声を上げないことでした。私が所属していたアメリカの大企業は、いずれも日本での売り上げが非常に大きかったのですが、日本支社の人たちは一様におとなしいのです。

しかし、売り上げは少なくても、非常に積極的に本社に働きかけてくる国もあります。 言葉の問題や商習慣の違いなどから、本社の人たちは全ての支社の状況を公平に把握することが難しいので、そうなると声の大きいほうの言うことを聞いてしまいがちです。

また、素晴らしい製品を作っている会社が日本には多くあります。そういう会社がグローバルに発信するのを手伝ったり、消極的な日本の会社をサポートしたりしたいと、ずっとぼんやりと思っていました。

サン・マイクロシステムズにいた頃からなので、2000年頃から考えていたことになります。ただ、起業した頃は日本のお客様もいたのですが、最近はアメリカの会社のローカリゼーションの仕事が多くて、そこはちょっとモヤモヤしているところなのですが(笑)。

ーー2000年頃からというと、これまでの20年以上にわたる日本への思いが起業の根底にあるのですね。

はい、そうですね。また、多くの人がBBT大学院で勉強してますます会社を辞めたくなったとか、起業したくなったと言っていましたが、逆に私は「BBT大学院で学んだ今なら、大きい企業でもうまくやっていけるかもしれない」と思いました。

必ずしも起業だけが道ではなく、企業に所属してリードしていく役割もとても大事だと思います。企業には組織も資本もあるわけですから、よい会社にいらっしゃるのなら、いかに上を動かして会社を動かしていくか、その辺りをもっと考えるといいのではないでしょうか 。

ーー起業だけでなく、会社の中でリードしていく方向性もあるということですね。白井さんはBBT大学院を卒業されて、すでに10年たっていますが、今もBBTでの学びは役立っているでしょうか?

はい、もちろんです。BBT大学院で勉強するまで、マーケティングや営業的な考え方について、私には全く知識がありませんでした。

しかし今では、複数のテクニカルな資料をひとつのプレゼン資料にまとめるとか、どういうメッセージングをするか、競合に対してどういう強みをアピールをするべきか、それはいつやるべきかなどが自然と考えられます。

マーケティングコミュニケーションのグローバリゼーションという仕事において、必ずしも正解をアドバイスできる訳ではないですが、お客様と同じ言語で話せるようになったのは大きな収穫でした。

BBT大学院で勉強していなかったら、こういう形での起業はなかったと思います。ヴィエムウェアを退職した後、BBT大学院の門を叩いたことで新たな道が開けました。

アメリカでテクニカルプログラムマネージャーとしての経験を積み、人事権を持つマネージャー職についたものの、上層部と部下との板挟みに課題を感じていた白井さん。その後、シリコンバレーで起業され、一層飛躍された白井さんに、BBT大学院入学までの経緯や学び、起業についてうかがいました。

プロフィール

白井雅子(しらい まさこ)さん

2009年ビジネス・ブレークスルー大学大学院(以下、BBT大学院)入学、2011年修了。サン・マイクロシステムズにてエンジニアリングマネジャーとして勤務後、ポスティー二社へ転職(後にGoogle)。ヴイエムウェアへの転職を経て、マーケティングコミュニケーションのグローバル化支援を事業とするKotonoha Tech LCCを創業、現在に至る。在米32年。

米企業でエンジニアリングマネージャーとして、経営陣の巻き込みに苦労した過去


ーー白井さんはアメリカ在住32年で、大手企業やベンチャー企業でさまざまな経験をされてこられました。そのあたりのことをうかがえますか。

アメリカではテクニカルプログラムマネージャーとしてサン・マイクロシステムズで働き、その後マネージャーに昇格しました。

2006年にレイオフされたのですが、わりと景気がよかったので、すぐにスタートアップのポスティー二社に就職しました。電子メールやWebサイトのセキュリティ関連事業を行なっていた会社で、後にGoogleに買収されています。

私が入社した頃はまだ小さい会社でしたが、海外にも市場を広げたいということでお声がけいただき、ほとんどゼロからローカリゼーションのチームを立ち上げました。

その後、ソフトウェアの国際化を担当するチームのマネージャーとして、ヴイエムウェアという会社に入社しました。ローカリゼーションのベース部分の開発という仕事内容が、サン・マイクロシステムズで担当していた仕事と似ていて、やりたいと思ったのが転職の理由です。

しかし、たまたま私の所属していた部門は社内政治が激しく、上層部と部下の板挟みになって苦労しました。

当時の私は、上層部の意思決定の理由や背景が理解できず、反感さえ持っていました。また、部下は非常に優秀で顧客第一だったため、お客様を軽視するような上層部の決定には私以上に反抗的でした。

彼らは正論を言ってるのですが、表現が直接的なので共感を得られません。また、私は部下の言い分が理解でき、それを代弁する立場でしたが、そうすると上からの風当たりは強まりました。

私は世渡りがうまいわけでも、カリスマ性があるわけでも、飛び抜けて優秀なわけでもなく、ツッコミどころ満載のマネジャーだったと思います(笑)。

そのため、現場のエンジニア、経営陣を巻き込んで正しいことを行えませんでした。結局、簡単にいうと社内政治に疲れてしまい、ヴイエムウェアを退職したのです。

MBAを学び、顧客、経営者視点に立った提案ができるようになった

ーー苦しいご経験だったとお察しします。BBT大学院へ入学されたのはいつ頃ですか?

ヴイエムウェアを辞めた後の2009年です。いろいろとお声がけいただいて仕事自体はありましたが、サン・マイクロシステムズにいた頃からエグゼクティブの意思決定について勉強したいと思っていました。ヴイエムウェアを辞めた時に、「今しかない」と思ってBBT大学院の門を叩きました。

ーーアメリカの会社は経営判断がドラスティックで、社内政治が激しいという話も聞いたことがあります。

それは会社や部署によりますが、本当に優秀な人は、会社のため、お客様のためになるようにどういう場合でもリードしていけるのだと思います。残念ながら、当時の私はそこまでできませんでした。

BBT大学院で学びながら、自分の過去の失敗などについて考えると、「あの時、こうすればもっとよかったのかもしれない」といろいろ気づくことがありました。

正論であっても、それを伝えるためには、根回しをしたり支持してくれる人を増やしたりして、皆笑顔で前に進めるようにする必要があったと思います。

ーーBBT大学院に入ってから気づいた、具体的な例を聞かせていただけますか?

思いついたところでは、ポスティーニでの例があります。

私が入社した当時、製品の一部として証拠保全のためにEメールなどの文書の保管と検索を可能にする機能があったのですが、日本語のEメールが検索できないという問題がありました。
また、スパムの疑いのあるEメールを隔離して安全な環境で表示するという機能では、日本語のEメールが正しく表示できないというような状態でした。文字コードの違いにより、日本語が文字化けしてしまうのです。

直属の上司や副社長レベルまではそういう状況をよくわかってくれていて、相談すると、「社長に話してみれば」ということになりました。

しかし、社長に状況を説明すると、「では、日本人は英語でメールを書けばいいじゃないか」と言われたのです。そういう社長に対して、当時の私は何も言う術がなくて、うまく説得できませんでした。

ーー厳しい戦いですね。

まわりの人たちは、日本語の構造がどうなっているのかなどの技術的な詳細はわかりませんでしたが、日本を含むアジアに進出したいという野心がありました。それで私に期待して応援してくれていましたが、「こう言えばいい」「社長のこういうところをつくといい」のようなアドバイスはなかったです。

後になってBBT大学院で学び始めてから、ファクトをリサーチして提示したうえで、提案が通るようにプレゼンができればよかったと思いました。

ーーどの授業を受けて、そう思うようになったのでしょうか?

「問題解決思考」の授業です。お客様の前にファクトを提示するとか、0か100かでなく段階的に進めていくとか、オプションをいくつか揃えて相手に選ばせるとか、そういう営業的な考え方を教えていただきました。

その授業を受けて、もっと相手の立場に立って考えるべきだったと思いました。言い方を変えると、私のほうが全く相手の立場に立ててなかったのですね。

エンジニアリング的に正しいという、それだけで勝負しようとしていたので、それだと人はついてこないことがわかりました。

ーーそこで納得できたということですね。他に印象に残っていることはありますか?

そのほかに、本科目では箇条書きにする時にしてはいけないことを、繰り返し教えていただいたのを覚えています。

例えばリスト化する時は、「りんご、みかん、お皿」ではなく、「りんご、みかん、かき」のように性質を同じものにしないといけないと何度もおっしゃっていました。それが、今の仕事に非常に役に立っています。

マーケティング的な考え方ということでは「RTOCS」(※註2)も役立っています。

それまでは経営者の立場に立って考えるということを、一度もしたことがありませんでした。「どうして、こんなことをするのだろう」と批判するばかりで、当事者的な考え方というのがなかったのです。

RTOCSの授業では経営者の立場で考えることを繰り返し練習するので、よい解決策が出てくるかどうかは別として、それが癖になり身につきました。

他にも「環境変化と企業改革」という講義では、半導体事業における経営戦略を中心としたもので、大企業で変革を起こすということがどういうことなのかを学びました。

変革の規模やインパクトは甚大で、これほどの内容をリーダーレベルから実務レベルに至るまで詳細に聴くことができる講義はめったにないと感じました。成功だけでなく貴重な失敗から学ぶ体験を、終始一貫穏やかな口調で惜しげもなく披露されたご講義は、その一言一言が心にしみるようでした。

また、講義全体を通じて、職務や責任に対して常に真摯な態度で臨まれる森本先生の生きざまを見せていただいたように感じ、はっとさせられました。自分もそうあらねばと身がひきしまる思いでした。

BBT大学院のビフォーとアフターでは、いろいろなものに対する私の観点が全く変わったといえます。

編集者註
(※2)「RTOCS(アールトックス)」:「Real Time Online Case Study」の略称で、BBT独自のケースメソッドです。答えの出ていない「現在進行形の企業課題」をケースとして扱い、当該企業に関する調査・分析・戦略考案を自ら実施します。大前研一学長の戦略系科目において、卒業までに2年間毎週1題=合計約100題を繰り返し行います。

(※3)「環境変化と企業改革」:森本泰生教授担当科目。

20年抱いていた日本の会社を応援したいという想い。それを具現化して、海外起業

ーー起業されたのは、BBT大学院に在学中の時だったのでしょうか?

そうです。入学したのが2009年で、2010年に起業しました。

ーーアメリカでプログラムマネージャーやマネージャーとして働き、その後BBTで学びながら起業されたとうかがうと、一般的な日本人には相当ハードルが高く感じられるのですが、何か大きな心境の変化があったのですか?

心境の変化というよりも、いつも日本の会社やビジネスを応援したいという想いがあったといえます。


アメリカの会社にいてずっと気になっていたのが、日本の支社の人たちが本社に対して声を上げないことでした。私が所属していたアメリカの大企業は、いずれも日本での売り上げが非常に大きかったのですが、日本支社の人たちは一様におとなしいのです。

しかし、売り上げは少なくても、非常に積極的に本社に働きかけてくる国もあります。 言葉の問題や商習慣の違いなどから、本社の人たちは全ての支社の状況を公平に把握することが難しいので、そうなると声の大きいほうの言うことを聞いてしまいがちです。

また、素晴らしい製品を作っている会社が日本には多くあります。そういう会社がグローバルに発信するのを手伝ったり、消極的な日本の会社をサポートしたりしたいと、ずっとぼんやりと思っていました。

サン・マイクロシステムズにいた頃からなので、2000年頃から考えていたことになります。ただ、起業した頃は日本のお客様もいたのですが、最近はアメリカの会社のローカリゼーションの仕事が多くて、そこはちょっとモヤモヤしているところなのですが(笑)。

ーー2000年頃からというと、これまでの20年以上にわたる日本への思いが起業の根底にあるのですね。

はい、そうですね。また、多くの人がBBT大学院で勉強してますます会社を辞めたくなったとか、起業したくなったと言っていましたが、逆に私は「BBT大学院で学んだ今なら、大きい企業でもうまくやっていけるかもしれない」と思いました。

必ずしも起業だけが道ではなく、企業に所属してリードしていく役割もとても大事だと思います。企業には組織も資本もあるわけですから、よい会社にいらっしゃるのなら、いかに上を動かして会社を動かしていくか、その辺りをもっと考えるといいのではないでしょうか 。

ーー起業だけでなく、会社の中でリードしていく方向性もあるということですね。白井さんはBBT大学院を卒業されて、すでに10年たっていますが、今もBBTでの学びは役立っているでしょうか?

はい、もちろんです。BBT大学院で勉強するまで、マーケティングや営業的な考え方について、私には全く知識がありませんでした。

しかし今では、複数のテクニカルな資料をひとつのプレゼン資料にまとめるとか、どういうメッセージングをするか、競合に対してどういう強みをアピールをするべきか、それはいつやるべきかなどが自然と考えられます。

マーケティングコミュニケーションのグローバリゼーションという仕事において、必ずしも正解をアドバイスできる訳ではないですが、お客様と同じ言語で話せるようになったのは大きな収穫でした。

BBT大学院で勉強していなかったら、こういう形での起業はなかったと思います。ヴィエムウェアを退職した後、BBT大学院の門を叩いたことで新たな道が開けました。