大前研一メソッド 2022年2月8日

中国に対しては、弱腰外交こそが正解?

japan china diplomacy

北京冬季五輪が2022年2月4日から始まりました。新型コロナの影響で、開会式は2008年の夏季五輪より大幅縮小しましたが、東京五輪のように無観客で開催して大失敗するよりはましでしょう。

北京冬季五輪に関しては、2021年12月に米国、英国などが「外交的ボイコット」を表明し、日本も閣僚を派遣しないと騒ぎになりました。外交的ボイコットを表明しない岸田文雄政権に「弱腰外交だ」と非難の声が一時あがりました。しかしながら「中国に対しては、弱腰外交こそが実は正しい」とBBT大学院・大前研一学長は指摘します。

大前研一(BB大学院 学長 / BOND大学教授 / 経営コンサルタント)
編集/構成:mbaSwitch編集部

日中関係の2000年の歴史は、弱腰外交がデフォルトだった

日中関係の長い歴史を見れば、日本が強気な態度に出たことはほとんどない。弱腰がデフォルトなのだ。

日本が弱腰外交をやめたのは、明治以降の一時期にすぎない。中国がアヘン戦争で負けてから、第二次世界大戦が終わるまでの100年ほどだ。

その間に日本が中国の一部を占領したのは、日清・日露戦争がきっかけだった。日本は「戦勝国」として、ロシアから遼東半島南部の租借権、南満州鉄道などを得た。欧米列強の真似をして、“遅れてきた帝国主義”に走ってしまったのだ。

欧米やロシアも清の時代に侵略して植民地化を進めたのに、現在は日本だけが中国からきついことを言われる。日本の外交が下手な結果だ。

明治以降の100年を除けば、日本は中国とうまく付き合ってきた。朝鮮半島の国には、5世紀頃に任那日本府を置くなど、対等かそれ以上の態度で接してきた。しかし中国に対しては違う。中国のように尊大な覇権主義国は、弱腰な相手だけを仲間として認める。日本は弱腰に見せて、大国の中国から最先端の技術や文化を学び、国家をつくってきたのだ。

遣隋使、遣唐使のようにエリートの留学先は中国だった。僧侶は中国で勉強してくると、偉い僧正になれた。中国帰りが朝廷や仏教界でのさばり、留学していない者たちは素直に従った。

中国が最先端の大国だったことは、治水の技術を見てもわかる。治水は為政者の重要な仕事であり、中国の皇帝たちは神経質に思えるほど熱心に取り組んだ。

例えば、成都市の近くにある都と江堰こうえんは、紀元前3世紀に原型ができた水利施設で、世界遺産にも登録されている。洪水から町を守るため、増水すると山の運河を通って盆地へ流れる仕掛けだ。

私は現地を視察して感動した。日本でいえば弥生時代に、腰が抜けるほど高度なエンジニアリングがあった。二宮尊徳が酒匂さかわ川で、金原明善が天竜川で大規模な治水工事に成功する2000年以上も前のことだ。

日本は中国から先端技術や漢字などの文化を輸入し、政治や制度を学んで日本という素晴らしい国を築いてきた。常に弱腰外交だったからできたことだ。

このように歴史を紐解けば、「中国に気をつかった弱腰外交」という発言そのものが、帝国主義時代の傲慢な言い方だ。

日本や台湾を守る余裕が、米国にはない

中国への弱腰外交は、米国にとってはおもしろくない。しかし今後は、どう考えても中国の時代になるし、21世紀の米国は「何を考えているの?」と尋ねたいぐらい、まったく頼りにならない。

例えば、「台湾有事」が起きたら、バイデン大統領は本当に台湾を守るのか。中国は台湾をめぐってちょっかいを出しているが、いざ中国が台湾を本格的に攻撃したら、米軍は逃げ出すと私は見ている。

中国は、ロシアの「ツィルコン」に匹敵する極超音速ミサイルを開発している。このミサイル(東風17)を撃たれると台湾の防衛は非常に困難で、中長距離ミサイル(東風26)はグアムまで届く。射程内に米国の空母は入れなくなるだろう。

2021年12月に、安倍晋三元首相は「台湾有事は日本の有事」と言ったが、具体的には沖縄だけではなく、横須賀の第7艦隊や横田基地も標的になる。つまり、首都圏が狙われるということだ。「尖閣諸島は日米安保の対象か」というレベルではないのだ。

米軍は尖閣を守るどころか、中国が軍事行動に出れば一目散に逃げていくだろう。イラクでもアフガニスタンでも中途半端で軍事行動を終わっている。

いまの米国に、他国を守る余裕はない。「トランプ後遺症」で国内が混乱し、自分の袴を踏んでひっくり返っている状況である。

日本にとって最善のポジションは、中国には弱腰外交を徹底し、米国には是々非々で協力するにとどめるという立ち位置であろう。

※この記事は、『プレジデント』誌 2022年2月18日 を基に編集したものです。

大前研一

プロフィール マサチューセツ工科大学(MIT)大学院原子力工学科で博士号を取得。日立製作所原子力開発部技師を経て、1972年に経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク入社後、本社ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を歴任し、1994年に退社。スタンフォード大学院ビジネススクール客員教授(1997-98)。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)公共政策大学院総長教授(1997-)。現在、株式会社ビジネス・ブレークスルー代表取締役会長。ビジネス・ブレークスルー大学学長。豪州BOND大学教授。