大前研一(BBT大学大学院 学長 / BOND大学教授 / 経営コンサルタント)
編集/構成:mbaSwitch編集部
ウクライナ侵攻をめぐって、ロシアのプーチン大統領が、ウクライナ側との直接会談を2025年5月15日にトルコのイスタンブールで行うことを提案しています。それに対し、ウクライナのゼレンスキー大統領は「まずは30日間の無条件の停戦に応じるべきだ」という立場を示しています。プーチン大統領はこれまで、「ゼレンスキー大統領は非合法な大統領だ」と主張し、「交渉相手にならない」という認識を繰り返し示してきました。トルコでの会談が実現するのか、世界の注目が集まっています。会談が実現する場合、現実的なラインで合意する覚悟を持ってゼレンスキー大統領が交渉に当たれるかどうかが鍵になると、BBT大学院・大前研一学長は指摘します。
ロシアによるウクライナ侵攻は、ゼレンスキー大統領が自分で蒔いた種だった。
支持率の低下で慌てて進めたのが、ウクライナのEUとNATOへの加盟申請である。EUメンバーになれば、域内を自由に移動できる。海外で仕事をしたいと考える多くのウクライナ人を取り込むための策である。
さらに1994年に米国、ロシア、英国の3か国が交わした「ブダぺスト覚書」にも異議を唱えた。ソ連邦解体後ウクライナには旧ソ連時代に製造された核兵器が大量に残っていた。それらを放棄させる代わりに3か国がウクライナに安全保障を提供することを約束したが、ゼレンスキー大統領は「ロシアによるクルミア併合はウクライナが核を放棄したから」と言い出した。
決定打はミンスク合意の破棄である。2014年、親ロシア派武装勢力がウクライナ東部のドネツク、ルガンスク2州の一部を占拠したことを発端に紛争が勃発。翌2015年、ロシアとウクライナがドイツとフランスの仲介により、ミンスクで調印し、ウクライナが2州に自治権を与えることで停戦が決まった。ただ、ロシアによる東部地域の実効支配を恐れたウクライナは、ミンスク合意をなかなか実行しようとしなかった。
元々その状態だったところに加えて、ゼレンスキー大統領は「2州に『特別な地位』を与えるつもりはない」と明言。プーチン大統領の堪忍袋の緒が切れて、ウクライナ侵攻を始めたのである。
こうした経緯があるがゆえ、今進められている停戦交渉もミンスク合意に近いところが落としどころになる。ゼレンスキー大統領は、2州はもちろんクリミアを取り戻すまで停戦はないという立場だったが、これはあり得ない。
現状でロシア軍は2州に加えてザボリージャ州、へルソン州の半分を占領している。ウクライナがロシア側のクルスク州の一部に侵攻しているが、それと領土交換するにしても、ドニエプル川の東岸はロシアの領土になるだろう。
【資料】ウクライナ 行政区分図
ゼレンスキー大統領は「NATO加盟を認めてもらえば退任する」と言っているが、NATO加盟も考えられない。今回のウクライナ侵攻で、比較的中立だったフィンランドとスウェーデンがNATOに加盟した。これはプーチン大統領にとって安全保障上の大失策で、西側の影響力をこれ以上拡大させることをプーチン大統領が許すはずがない。
そもそもウクライナのNATO加盟には欧米諸国が消極的である。まず、20年以上にわたっていまだEU加盟が認められていないトルコが反対するだろうし、トランプ大統領は米国のNATO離脱をにおわせていて、そもそもNATOを重視していない。関係国はどこも認めないだろう。
停戦合意が成立するなら、最終的にはウクライナはミンスク合意と比較してより広い支配権を失い、EUやNATO加盟も果たせない可能性が高い。
トランプ大統領が「独裁者」と呼んだように、ゼレンスキー大統領は任期が終わっても大統領選挙を実施していない。戒厳令が出ている戦時体制下では大統領選ができない法律になっているからであるが、停戦が行われれば選挙が行われる。ウクライナ国内ではゼレンスキー大統領の支持率は一時的に高まったが、現実的なラインで停戦合意すれば、再選は難しいだろう。ゼレンスキー大統領がその覚悟を持って停戦交渉に当たれるかどうかが鍵になる。
ルビオ米国務長官はNATO外相会議に出席するため、2025年5月14~16日にトルコを訪れる。欧州の加盟国とウクライナ停戦などについて話し合う。ウクライナとロシアの直接交渉が実現すれば、停戦を仲介してきた米国も関与する可能性がある。
米国は2025年4月、ウクライナと、同国のレアアースを含む天然資源に関する協定を締結した。実はレアアースはそれほど価値の高い金属ではない。日本では「レア」というと希少価値が高いというイメージがあるが、英語では「少ない」ぐらいのニュアンスである。
実際、ウクライナ領土に埋蔵するレアアースは対して希少でもなく、トップの中国を除けば、米国、ブラジル、インド、オーストラリアなども豊富に埋蔵している。仮に採掘権を得ても、米国の採掘会社はどこも手を挙げないだろう。それを知れば、見返りがないと動かないトランプ大統領がウクライナに対する興味を失う可能性もある。
頼みの綱はトランプ大統領の虚栄心である。トランプ大統領は事あるごとに「私の業績はノーベル平和賞に値する」と発言している。ノーベル平和賞を選ぶのはノルウェーの委員会であり、授与はまず考えられないが、仕事をさせるために候補者にまつりあげておけばよい。
ウクライナはしばらくトランプ大統領に振り回されることになるが、日本にとっても対岸の火事ではない。トランプ大統領は2025年3月「われわれは日本を守らなければならないが、日本はわれわれを守る必要がない」と、日米安保条約が片務的であることに不満を示した。いわゆる台湾有事が起こってしまったら、日本に“ディール”を持ちかけてくるおそれは十分にある。
そもそも日米安保条約が片務的なのは、米国の置き土産である憲法が日本の再軍備を許さなかったからである。
トランプ大統領が難癖をつけたのは、日本の防衛費で米国の武器を買わせるためである。買うか買わないかの単純なことしか頭になく、歴史的にも経済的にも無知なトランプ大統領のもとでの日米同盟はもはや疑問しかない。今、日本はなるべく刺激しないように、トランプ大統領と距離を置くことが賢明である。
※この記事は、『プレジデント』誌 2025年5月2日号 を基に編集したものです。
大前研一
プロフィール マサチューセツ工科大学(MIT)大学院原子力工学科で博士号を取得。日立製作所原子力開発部技師を経て、1972年に経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク入社後、本社ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を歴任し、1994年に退社。スタンフォード大学院ビジネススクール客員教授(1997-98)。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)公共政策大学院総長教授(1997-)。現在、ビジネス・ブレークスルー大学学長。豪州BOND大学教授。