大前研一メソッド 2024年6月4日

インド、モディ政権が3期目に入りさらに経済成長か

development in india under Modi
大前研一(BBT大学大学院 学長 / BOND大学教授 / 経営コンサルタント)
編集/構成:mbaSwitch編集部

インド下院(定数545、任期5年)の総選挙は、2024年6月4日に開票されます。複数の現地メディアは、出口調査の結果として、モディ首相が率いるインド人民党を軸とする与党連合が過半数を確保する見通しだと伝えました。過半数を獲得した政党あるいは政党連合の指導者が首相に任命されます。モディ政権が連続3期目に入る公算が大きくなっています。

インド経済はモディ政権下の10年で躍進しました。躍進の要因は何だったのでしょうか。外部環境と内部環境をBBT大学院・大前研一学長に聞きました。

世界のIT産業隆盛の波をつかまえて成長

インド経済の勢いが止まらない。国際通貨基金(IMF)の推計によると、インドの名目GDPは2025年に4兆3398億ドルになり、これで4兆3103億ドルの日本を抜いて世界4位に浮上。さらに2年後には現在3位のドイツも抜く見込みだ。

インドの驚異的な経済成長のきっかけは1990年代、米国で広がったBPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)のオフショア化である。米国の大手通信会社ベルサウス(のちにAT&Tが買収)は、コールセンターを人件費の安いインドに移した。米国の消費者が電話するとインドに転送され、システムの遠隔操作で対応する。こうしたBPOサービスで成長したのが財閥系のタタ・コンサルタンシー・サービシズだった。

続いてやってきた、2000年問題——1999年の次の2000年を、システムが1900年と認識して誤作動する問題——に対応するためSIer業界が活況を呈して、インドにも発注が殺到。このときにインフォシスやウイプロ、サティヤムといったIT企業が雨後の筍のごとく台頭した。

2000年問題収束後、案件が激減したものの、IT各社は米国に営業拠点をつくって優秀なインド人を大量に送り込んだ。営業活動を強化して反動を乗り越えたのだ。

インドは高等教育に力を入れている。全土にIIT(インド工科大学)が23校、IIM(インド経営大学院)が13校ある。米国に送り込まれたのは、これらの教育機関で学んだエンジニアや経営人材たち。米国企業も彼らを次々に引き抜いた。このとき就職・転職したインド人は、今や世界的企業の中枢にいる。マイクロソフトのサティア・ナデラCEOや、ペプシコを率いたインディラ・ヌーイ元CEOも、インドで高等教育を受けた人材だ。

渡米しなかった人材も優秀だった。ビル・ゲイツは早くからインドに目をつけて、ハイデラバードに開発拠点を置いていた。バンガロールやプネーにもエンジニアが多い。この3都市がインドのIT産業を牽引していった(注:私の著書『企業参謀』の英語版“THE MIND of the STRATEGIST”が世界でいちばん売れているのもインドだ。ほとんどの経営者が読んでいるだけではなく海賊版も広く学生たちに愛読されている)。

2017年にドナルド・トランプが米大統領に就任したことも結果的にインドには追い風になった。米国人の雇用を守るために、トランプが非移民就労ビザの発行を停止した。その影響でシリコンバレーで活躍していたエンジニアが続々と帰国し、起業ブームが起きたのだ。インドは伝統的に財閥系が強いが、近年はスタートアップが増え、ユニコーン企業(企業価値評価額10億ドル以上、かつ創業から10年以内の未上場ベンチャー企業)数も世界第3位となっている。

インドは人件費の安さを入り口にして、グローバルでIT産業隆盛の波をつかまえて成長した。中国もインドと同じように成長し、今ではIT力も高めたが、インドには英語力という強みがある。日本やドイツを抜いた勢いで中国に迫るのも、時間の問題だ。

ガンジー/ネルー政権下では、60年間最貧国に沈む

インドの成長は国内政治の影響も大きい。インド人民党を率いるナレンドラ・モディ首相が登場しなければ、今の経済成長はなかったからだ。

かつての宗主国英国はインドに「民主主義」「証券取引所(資本主義)」「英語」の3つを残した。

グローバル経済の時代は、「資本主義」と「英語」が必須である。中国がこれらを引き継がなかったことを考えると、本来はインドが中国より先に経済成長するはずだ。にもかかわらずインドが中国に後れを取ったのは、英国が残した「民主主義」の悪い面が出て、衆愚政治がはびこっていたからだろう。

インド独立後に長らく国政を担った、国民会議派の中心的存在であるガンジー/ネルーの一族は「超」のつくお金持ちだ。ただ、国民会議派は選挙が近づくと自分たちのことは棚に上げ、富裕層を批判し、貧困層に富を再分配することを約束した。これが国民の大多数を占める貧困層にウケるのだ。

私がインドで合弁事業を手がけていたとき、ハイデラバードがあるアンドラ・プラデシュ州の知事に呼ばれて、何度か面会したことがある。彼は資本主義者で、IT産業の育成で州を豊かにしようとしていた。私がマレーシアのマハティール首相のアドバイザーを務めていたころに「マルチメディア・スーパーコリダー計画」をまとめたことを知り、「同じことをわが州でもやってくれ」と彼に頼まれたのだ。

しかし一方で、彼は「次の選挙で自分は落ちる」と嘆いていた。対立する国民会議派候補が州民にこう訴えていたからだ。「コンピューターで飯が食えますか。私はあなたがたに明日パンを持っていきます!」

貧困層にはこの訴えが効く。国民会議派は各地でこの主張を展開。広く支持を集めて、何度か下野を経験しつつも長らく国政を担っていた。

国民会議派は外資にも厳しい。インド市場で4割のシェアを持つスズキも、政府から嫌がらせを受けてストライキや工場閉鎖に追い込まれたことがあった。当時の鈴木修社長は粘り強く戦い抜いて市場に定着させることに成功したが、多くの外資系企業はインドへの参入を諦めた。私のいたマッキンゼーも「資本比率を50%以上インド側に与えないといけない」ということで参入そのものをあきらめたくらいだ。

こうしたやり方でインド人は飯が食えるようになったのか。国民会議派は戦後約60年近く統治をしたが、2000年代に入っても電気のない村が多く、道路は未舗装のまま。国民会議派の主張は、富の再配分だったが、実際には「貧困の再配分」をしていたのだ。

政権交代後、モディ首相がインドを経済大国に引き上げた

この悪政に引導を渡したのが、ヒンドゥー至上主義で党勢を拡大した、インド人民党のモディ首相である。2014年に政権を握ると、パンよりコンピューターに未来があることを示し、すでに成長を始めていたIT産業の支援を開始した。

また、モディ首相は税収にならないブラックマネーをなくすため、2016年にルピーの高額紙幣2種類を突然廃止した。普通なら大混乱を引き起こす政策である。しかし、インドはその前に、固有識別番号庁をつくり、生体認証付き国民ID制度「アドハー」の導入を進め、高額紙幣廃止の混乱も最小限に抑えた。

実務家であるインフォシスの二代目CEOナンダン・ニレカニが全権を与えられ、陣頭指揮を執ったことで10本の指紋と虹彩を14億人から取るのに2年とかからなかった。インドには銀行のない村が多いが、生体認証付きのアドハーとスマホの普及で、すでに銀行の店舗に行かなくても困らない環境ができていたのである。

インド政府はその後も行政のデジタル化を推し進め、今や選挙は文字が読み書きできない人もタッチパネルで簡単に投票できる。モディ首相は最貧国を一気に21世紀国家に引き上げた功労者といっていい。

外交手腕も光る。インドの外交はどこの陣営にも属さず、状況に合わせていいところだけ持っていく傾向が強い。

例えば、従来インドの最大武器輸入先はロシアであったが、現在では武器調達元の多様化を推進している。しかし、ロシアとの縁は切ることなく、今度は経済制裁で他国が買わなくなった石油やガスを安く買い入れている。

臆面なく自国の利益を追求する外交方針は、欧米からは節操なく見えるが、経済にもプラスに働いていることは間違いない。

絶好調に見えるインドの死角

絶好調に見えるインドだが、一方で課題も残されている。

ヒンドゥー至上主義を掲げて台頭したモディ首相は、2002年のグジャラート州首相時代に、ヒンドゥー教徒による多数のイスラム教徒虐殺を煽ったとされている。インドの14%を占めるイスラム教徒の恨みは相当なものだ。

またヒンディー語強制策を巡って、モディ首相は南インドに多いタミル人にも嫌われている。

経済成長後には、バランスよく富の再配分を行い、国民の融和を図るべきだろうが、モディ首相にその素振りは見られない。

モディ首相は今回の選挙にも勝利し、おそらく3期目に入るだろう。しかし、モディ首相の頭の中にあるのは、残された課題の解決よりも、自らの功績をたたえる仕事のように思える。

その姿勢は、2023年に議長を務めたG20でも見られた。インドの経済成長が驚異的であることは事実だが、グローバルサウスの国々を呼び集め、インドこそがそのチャンピオンであるかのごとくふるまっていた。

この成長をどう取り込むのかが日本の課題だが、一筋縄ではいかないだろう。インド人の日本に対する関心は、米国に払う関心の100分の1もないのが実情だ。スズキといった一部例外を除き、日本企業がこれから参入して成功するのは難しいのではいか。それが90年代にいち早くインドのIT企業と合弁会社を立ち上げ深く関わってきた私の見立てである。

※この記事は、『プレジデント』誌 2024年6月14日号 を基に編集したものです。

大前研一

プロフィール マサチューセツ工科大学(MIT)大学院原子力工学科で博士号を取得。日立製作所原子力開発部技師を経て、1972年に経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク入社後、本社ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を歴任し、1994年に退社。スタンフォード大学院ビジネススクール客員教授(1997-98)。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)公共政策大学院総長教授(1997-)。現在、ビジネス・ブレークスルー大学学長。豪州BOND大学教授。