大前研一メソッド 2023年12月5日

東芝を凋落させた二つの原因

Toshiba

大前研一(BBT大学大学院 学長 / BOND大学教授 / 経営コンサルタント)
編集/構成:mbaSwitch編集部

東芝が、2023年12月20日に非上場化されます。日本を代表する電機メーカーの凋落は、「多角化に走った日本企業を考察する絶好のケーススタディになる」とBBT大学院・大前研一学長は指摘します。

東芝が凋落した原因は、大きく分けて2つあります。一つ目の原因は経営トップ。二つ目、績悪化後になかなか復活できないのは、投資銀行に相談したのが原因だとBBT大学院・大前研一学長は分析します。

多角化経営をする日本企業は、他山の石とすべきケーススタディで、教訓として貴重です。原因を順番に解説します。

原因その1:3人の経営トップの権力闘争

東芝の混迷が表面化したきっかけは、2015年に発覚した不正会計問題だ。混乱の最中、2006年に買収した原子力発電プラントメーカー、米ウェスチングハウス社(以下、WH)が巨額の損失を出してしまい、2017年に経営破綻。東芝も2017年3月期に9656億円の最終赤字を計上した。

このときは増資で上場廃止を免れたものの、こんどは株主となったアクティビスト(物言う株主)と再建方針を巡って対立。今回、TOB(株式公開買い付け)で非上場化するのも経営へのアクティビストの影響力を排除するためだった。TOB成立でようやく東芝は再建に向けて動き出せるが、8年に及ぶ混乱の代償は大きく、ライバルの日立製作所に大きく水をあけられてしまった。

【図1】電気機器企業における売上高ランキング
Sales ranking of electrical equipment companies

なぜ東芝は業績不振に陥ったのか。原因を事業構造や経営環境に求める向きもあるが、東芝に関しては経営トップの問題が大きい。経営者がまともなら、このような大惨事には至らなかった。

西室泰三氏

東芝に混乱をもたらした責任者の筆頭は、1996年に社長に就任した西室泰三氏である。日米経済摩擦が激しかった1987年に発生した、東芝機械製の工作機械が第三国経由でソビエト連邦に渡ったことを巡る「東芝機械ココム違反事件」で、西室氏は頭角を現した。事件後に米国で巻き起こった東芝バッシングの火消しで、駐在歴が長く、英語が堪能な西室氏が活躍したのだ。

西室氏は経営の本流ではなかったものの、ココム違反事件での対応が評価されて社長になった。西室氏は権力の維持に熱心で、社長就任後は実力のある後継候補を次々に閑職へ追いやった。代わりに言いなりになる人間を重用し、社長退任後も院政を敷き、その体制が不正会計発覚まで続いた。

西田厚聰(あつとし)氏

西室氏の言いなりの筆頭が、2代後の社長を務めた西田厚聰氏だ。

イラン現地法人に入社した傍流だ。しかし本流でないことが、西室院政にとっては都合がよかった。

西田氏はパソコン事業部の部長時代にラップトップPCを開発した男として知られ、本人もそれを売り文句にしていた。ただ、真相は違う。

1985年、私がいたマッキンゼーに東芝から「米国でIBMに勝てない。パソコンのマーケティングを手伝ってほしい」と依頼がきた。私はマッキンゼーのロサンゼルス事務所に話を振ったが、向こうのチームがリサーチ後に出した結論は「勝ち目がないからやめたほうがいい」。これに西田氏は激怒し、マッキンゼーに契約打ち切りを通告。

そのプレゼンに参加していた私は、「東芝の強みである液晶と小型化を活かしたPCを開発すれば対IBMで勝機がある」と、慌てて説明を付け加えた。

当時、PCはデスクトップが標準。コンパックが販売していたポータブルPCは重厚で携帯性が悪く、私はトランスポータブルと呼んでいた。私の提案は、手のひらや膝(lap)の上(top)に置ける「ラップトップ(laptop)」を開発してはどうかというもの。契約打ち切りになるのを避けるため、プレゼン中に私がその場で思いついたコンセプトだ。

しかし、私が提案をしたところで西田氏の怒りは収まらず、結局マッキンゼーは追い出されてしまった。しかしその1年後、プレゼンを後ろで聞いていた東芝社員が、私のところへやってきて「大前さんのいうラップトップをつくってみました。これで合っていますか」と試作品を見せにきた。これがのちに「ダイナブック」ブランドで世界を席巻することになる、ラップトップPCの第1号である。

西田氏はそうした経緯に触れず、長らくラップトップPCを自分の手柄のように吹聴していたが、さすがに気が引けたのか。死の直前に受けたインタビューの内容が『テヘランからきた男』(小学館)で語られているが、ラップトップPCが私のアイデアだったことを白状している。余談が長くなったが、つまり西田氏は自分の経歴を平気で脚色して生きていけるタイプの人なのだ。

佐々木則夫氏

西田氏の後任が、原子力畑で育った佐々木則夫氏。東芝は白熱灯の時代から米GEとのつながりが深く、GEが開発した沸騰水型原子炉(BWR)の製造をしていた。ほかには加水圧型原子炉(PWR)があるが、そちらは三菱重工業がWHと技術提携して運用していた。WHを手に入れれば、巨艦三菱重工に一矢報いることができる。佐々木氏はそう考え、英国核燃料会社からウWHの原子力部門を買収した。

ところが、デューデリジェンスが甘かった。WHの子会社ストーン・アンド・ウェブスターが受注工事で大幅な損失を出しており、買収した東芝も煽りを食らった。これが、2017年にWHが経営破綻へと至る端緒なのだ。

おそらく佐々木氏はWH買収の失敗を隠そうとしたのだろう。会長になっていた西田氏はそれを暴こうとして、内ゲバが始まった。

経営トップ2人が醜みにくく応酬する状況は、東芝にとって最悪である。しかし、新設した「名誉顧問」に退いて院政を敷く西室氏には好都合で、高みの見物を決め込んでいた。危急存亡の状況で経営の舵取りをするべき3人が、会社の将来そっちのけで権力闘争した結果、東芝は急速に凋落していったのだ。

原因その2:投資銀行に相談

東芝の失敗から学ぶべきもう一つの教訓は、業績不振に陥った後、投資銀行に相談してはいけないということだ。

投資銀行は、M&Aの成功報酬で取引金額の一定割合を手数料として取る。大きな取引ほど儲かるので、高く売れる事業、つまり儲かる事業の売却に積極的になる。

【図2】東芝が売却した主な事業
business sales Toshiba

不正会計が発覚した当時、東芝でもっとも将来性があったのは、東芝メディカルシステムズの医療機器事業だった。世界の医療機器市場はGE、独シーメンス、蘭フィリップスの3強で寡占しているのだが、東芝メディカルは超音波や画像診断機器などの分野で3強に比肩していた。しかし、そんな虎の子の子会社を、2016年3月にキヤノンへ売却してしまった。

同年6月には、東芝ブランドを長らく支えていた白物家電事業を手放した。分社化していた東芝ライフスタイルの株式を、中国の美的集団に譲渡したのだ。このときはテレビなどの映像機器事業を残したが、それも2018年に中国のハイセンスに売ってしまった。

厳しい競争環境下にある家電事業の売却はまだ理解できるが、世界的競争力を有していた半導体メモリの子会社、東芝メモリの売却はナンセンス過ぎる。

2018年6月に東芝は、米投資ファンドのベインキャピタルと韓国半導体メーカーSKハイニックスが出資するSPC、そして東芝(再出資)、HOYAからなる日米韓連合に東芝メモリを売却。キオクシアとして再出発した。半導体事業は、売却当時の2018年3月期で東芝の営業利益の約9割を稼いでいたのだが、まさに大黒柱を手放したことになる。そのキオクシアは米ウエスタンデジタルとの統合を目指しているものの、SKハイニックスの反対に遭って交渉が白紙化するなど、難しい立場に置かれてしまっている。

投資銀行は、残った事業で顧客企業がどうやってメシを食べていくのかということまで考えない。自身が儲けるために、一番「おいしい」ところから売っていく。東芝が上場廃止するまでの流れは、経営不振に陥った日本の大企業が投資銀行に相談したときによく起きるパターンそのままだった。

東芝が凋落した原因は経営トップにあったが、業績悪化後になかなか復活できないのは、投資銀行に相談したせいである。多角化経営をする日本企業は、これを他山の石とすべきだろう。

東芝伝統の「地下開発」に復活を期待

さて、東芝の将来はどうか。東芝は現在黒字転換しているが、業績は相変わらずパッとしない。

【図3】東芝の事業領域
business fields Toshiba

残った事業の中にも、エレベーターや防衛関連など強いものがないわけではない。ただ、エレベーターは競争が厳しく、防衛関連は安定して稼げるものの利益率は低い。

期待したいのは、東芝伝統の「地下開発」だ。かつての東芝は、いい意味でいい加減な会社だった。誰から指示されるでもなく、エンジニアが新しい技術製品を開発するのだ。西田氏に取り込まれたラップトップPCも社員が勝手に開発したものだったし、半導体のフラッシュメモリも舛岡(ますおか)富士雄氏が自由に研究して発明した産物だ。日本語ワープロのJW-10も、森健一氏らによる“密造酒”だ。

東芝の発明する力は混乱の中でも引き継がれていて、量子コンピュータの暗号通信で本質的な技術の特許を取ったりしているし、今でも英ケンブリッジ大学近くの研究所では革新的な研究が続けられている。

ただ、新しい技術が実用化されるのは先の話。それまでは残された事業で地道に稼ぐしかない。困難な再建になるだろうが、東芝が持っている強みを活かして立ち直ってほしいものだ。

※この記事は、『プレジデント』誌 2023年12月1日号、『大前研一ライブ』#1192 2023年12月3日配信 を基に編集したものです。

大前研一

プロフィール マサチューセツ工科大学(MIT)大学院原子力工学科で博士号を取得。日立製作所原子力開発部技師を経て、1972年に経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク入社後、本社ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を歴任し、1994年に退社。スタンフォード大学院ビジネススクール客員教授(1997-98)。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)公共政策大学院総長教授(1997-)。現在、ビジネス・ブレークスルー大学学長。豪州BOND大学教授。