大前研一メソッド 2023年10月24日

「放出水は核汚染されていない」と断言するのは危うい

treated contaminated water

大前研一(BBT大学大学院 学長 / BOND大学教授 / 経営コンサルタント)
編集/構成:mbaSwitch編集部

2023年8月28日、駐日中国大使館ホームページにおいて、ALPS処理水の海洋放出に関するコメントが掲載されました。

【資料】呉江浩大使、福島の核汚染水海洋放出問題で日本側に厳正な立場を一段と明確に説明
http://jp.china-embassy.gov.cn/jpn/dsgxx/202308/t20230828_11134021.htm

上記の中国政府コメントに対する中国側への回答を外務省が発表し、「放出水は核汚染されていない」と実態以上のことを断言してしまっています。

【資料】ALPS処理水の海洋放出に関する中国政府コメントに対する中国側への回答
https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press1_001548.html

自信満々に世界に対して宣言してしまって本当に大丈夫なのでしょうか。原子力工学の専門家であるBBT大学院・大前研一学長が実態を明らかにし、危うさを指摘します。

海洋放出されているのは紛れもなく「核汚染水」

東京電力(以下、東電)福島第一原発の「ALPSアルプス処理水」(以下、処理水)を海洋放出したことで、日本政府は自国を大変なところに追い込んでいる。

私はかつて、米マサチューセッツ工科大学(MIT)などで原子力工学を学び、原子炉の設計を仕事にしていた。原子力工学の専門家として誤解のないように言っておくが、今回の海洋放出で人体に健康被害が起きるとは考えていない。ただ、海洋放出に至る過程で、日本は中国との間に無用な軋轢(あつれき)を生んでしまった。

2023年8月24日に海洋放出が始まった処理水を、中国は「核汚染水」と呼び、猛烈に反発している。中国は日本への対抗措置として、同日付で日本産水産物の全面輸入禁止に踏み切った。中国側の呼称に釣られたのか、同年8月31日には野村哲郎農林水産大臣(当時)が取材中に処理水を「汚染水」と発言し、謝罪に追い込まれた。辞任には至らず、岸田文雄首相も更迭こそしなかったが、同年9月の内閣改造では案の定外された。

実は、中国と農水大臣が使った「汚染水」という表現は、何一つ間違っていない。海洋放出されたのは、紛れもなく「核汚染水」であるからだ。事実を言った農水大臣を猛バッシングする様子は、太平洋戦争中に反戦思想の持ち主を「非国民」と呼んだ、異常な雰囲気に通じるものがある。

海洋放出しているのは「汚染水」ではなく、あくまでも「処理水」だと主張する人々は、その根拠としてトリチウム(三重水素)の排出量をあげる。

福島第一原発の処理水を海洋放出する際のトリチウム排出量は、年間22兆ベクレル未満だ。それに対して、韓国の古里原発は49兆ベクレル、中国の陽江原発は112兆ベクレルと、福島第一原発の処理水を大きく上回る水準でトリチウムを排出している。フランスのラ・アーグ再処理施設に至っては年間1京ベクレルである。

「それらに比べれば処理水は汚染されておらず、福島第一原発だけをやり玉に挙げて汚染水と呼ぶのは間違い」というわけだ。

ただ、実際はトリチウムなんてどうでも良い。どれだけ排出しようが、海に放出して薄めれば健康被害は起きない。たしかに、濃いトリチウムを恒常的に体内に取り込むのは危険だ。しかし、トリチウムは体内に取り込んでも尿や便などと一緒に排出されるので、すぐに内部被ばくは起きない。だから世界の原発は、大量のトリチウムを海に流している。したがって、トリチウムの排出量を「汚染度」の指標として使うのはナンセンスということだ。

要注意の核種は、セシウム137やストロンチウム90など

トリチウムよりも注意しなければいけないのは、セシウム137やストロンチウム90など、重金属系の核分裂生成物である。これらは生物の体内で蓄積するので、食物連鎖の過程で生物濃縮し、大きな魚には無視できない量の核分裂生成物が含まれているおそれがある。

チェルノブイリ原発事故のあと、ドイツやオーストリアでセシウム137が集積されたキノコを摂食していたイノシシの肉を調べたところ、高濃度に放射能汚染していることが判明した。ビキニ環礁やエニウェトク環礁など、マーシャル諸島の原水爆実験場付近でも、こうした核分裂生成物が長期にわたって魚介類から検出された。

処理水の問題で大事なのは、トリチウム以外の核分裂生成物が本当に除去されているかどうかだ。

福島第一原発1〜3号機の炉心・格納容器内には、冷やし続けなければ再爆発してしまうデブリが今も残っている。デブリを冷やす冷却水は当然、核分裂生成物を含んでしまう。使用後の冷却水をそのまま海洋放出するわけにはいかないので、当初はフランスのアレバ社から放射性物質除去装置を導入して処理をしていた。ところが、装置の性能が期待していたほどでなく、海洋放出できる基準をクリアできなかった。行き場に困った処理水は、タンクにためざるをえなかったのである。

そこで、東芝や日立といった日本のメーカーが奮起し、多核種除去設備「ALPS」(Advanced Liquid Processing System)を開発した。国産のALPSは、さすがにアルバ社の装置よりは性能が良いらしい。しかし、いくら高性能のALPSといえども、トリチウム以外の核分裂生成物を「100%」除去することはできていない。「トリチウムは各国が放出しているので日本も同じことをやっているだけだ」という論調も見受けられるが、核分裂生成物そのものであるデブリを通過してきた処理水は、福島第一原発以外にない。この点を謙虚に認めるところから議論を進めなくてはいけない。

さらに、たとえ海洋放出するための規制基準値以下を達成していても、セシウム137などが100%除去されていないのであれば、それを「核汚染水」と呼ぶことは正しい。無論、ALPSで安全なレベルまで処理をしたから「処理水」と呼ぶことも正しい。科学的に見れば呼称はどちらでもいいのだが、「汚染水」と言った途端にヒステリックに糾弾するのは明らかに政治的な態度であり、それは間違っている。

東電や政府の隠ぺい体質は、今も変わらない

「東電や政府が安全だと言っているから、ALPS処理水は問題ない」と考えている人は、3.11で福島第一原発が爆発した直後のことを思い出すと良い。

あのとき東電は「異常な状態だが、冷却は正常に行われている」と言った。しかし、実際は冷却が正常に行われておらず、メルトスルー(溶融貫通)を起こしてデブリが原子炉の下に落っこちた状態になっていることは、容易に想像できた。理由は2つある。

1つ目は、爆発後に黒い煙が出ていたこと。黒い煙はゴム製のパッキングなどの部品が焼けていないと発生しないので、燃料が原子炉から溶け落ちて何かしらを燃焼しているのだ。

2つ目は、隣接するタービン建屋に入っていった作業員が、放射線熱傷をして出てきたこと。タービン建屋の放射線量が高いということは、原子炉・格納容器の底が抜けてデブリが下に落ち、高濃度の放射能を含む水が漏出している可能性が高い。

メルトスルーだと悟った私が、旧知の仲である東電幹部(当時)に電話をしたら、「メルトスルーはしないようになっている」としか言わなかった。

私は2011年3月19日に、福島第一原発ではメルトスルーが起きている可能性が高いことを動画で解説し、YouTube上に公開した。すると、動画はすぐさま反響を呼び、私は菅直人首相(当時)に呼び出された。菅首相は東工大の後輩なので、言葉遣いこそ丁寧だったが、イライラしているのは明白だった。菅首相は原子炉の断面図を私に突きつけて「説明してください」と言う。わかりやすく説明すると、「あのやろう!」と急に言葉遣いが荒くなった。「あのやろう」とは、班目(まだらめ)春樹原子力安全委員会委員長(当時)のことだ。メルトスルーを認めない彼にウソを吹きまれていたとわかり、菅首相は怒ったのだ。

しかし、その後も東電は一向にメルトスルーを認めなかった。そして、東電の見解をそのまま会見で垂れ流した枝野幸男官房長官(当時)の罪は重い。

東電の体質は、今も変わっていない。処理水のトリチウム排出量が少ないことを強調して、他の核分裂生成物については具体的な数値を積極的に公表しないのも、隠ぺい体質のあらわれである。過去の経緯があるだけに、東電の発表をそのまま鵜呑みにはできない。

一方、中国の態度もむちゃくちゃだ。放出された処理水は、黒潮に乗って中国と反対方向に拡散する。リスクがあるとしたら、食物連鎖で大型の魚に蓄積するケースだが、そのプロセスには何年もかかる。そもそも中国の河口付近の海水は工場排水で汚染されていて、処理水よりもずっと汚い。汚染水と呼ぶところまでは理解できるが、日本の水産物を直ちに輸入停止するのは非科学的で、過剰反応もいいところだ。

政府や東電の急務は、中国を含めた世界の科学者を日本に招いて、ALPSの処理前後で核分裂生成物を測定し、その結果を公表することだ。100%除去できずとも、「この量なら問題ないレベル」「ここまで希釈すれば安全」と国際的に確認できれば、少なくとも実務者間での見解の相違はなくなる。

小魚からセシウム137やストロンチウム90が検出されれば致命傷

政府はこうしたプロセスを踏まず、IAEA(国際原子力機関)に安全だと言わせてごまかそうとしている。IAEAのグロッシー事務局長はアルゼンチンの元外交官で、原子力はズブの素人だ。安全という評価に外交上の力学が働いていることは明らかであり、中国が納得しないのも当然である。

海洋放出を始めるのは、除去できなかった核分裂生成物の量が、健康に問題のないレベルだと、中国を含めた各国に確認してもらってからでよかった。現在、処理水は海底トンネルを通して沖合1km地点に海洋放出している。その辺りに生息するイカナゴなどの底魚が食物連鎖の起点になるリスクがあるし、万一そうした小魚からセシウム137やストロンチウム90などが検出されれば大騒ぎになるだろう。当然日本にとっては致命傷となる。そのリスクを避けるためには日本海溝付近までホースを延ばして深海に放出することが望ましい。建設費用は、漁民に補償金を払うよりずっと安くつくはずだ。

こうしたあたりまえの手続きを踏まずに海洋放出へ踏み切り、日本の評判を貶(おとし)めた。政府や東電は、今こそ猛省すべきである。

※この記事は、『プレジデント』誌 2023年10月20日号 を基に編集したものです。

大前研一

プロフィール マサチューセツ工科大学(MIT)大学院原子力工学科で博士号を取得。日立製作所原子力開発部技師を経て、1972年に経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク入社後、本社ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を歴任し、1994年に退社。スタンフォード大学院ビジネススクール客員教授(1997-98)。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)公共政策大学院総長教授(1997-)。現在、ビジネス・ブレークスルー大学学長。豪州BOND大学教授。