大前研一メソッド 2018年11月2日

「北方領土はわが国固有の領土」は日本政府の誤ったプロパガンダ



大前研一(BBT大学大学院 学長 / 経営コンサルタント)
編集/構成:mbaSwitch編集部

「平和条約を結ぼう。今ではないが、年末までに。あらゆる前提条件なしで」

2018年9月、ロシアのウラジオストクで開催された「東方経済フォーラム」の全体会合で、ロシアのプーチン大統領が安倍晋三首相に向けて行った提案が波紋を呼びました。プーチン大統領は「今思いついた」と前置きしたうえで前提条件なしで日露平和条約を年内に締結することを提案、「争いのある問題は、条約を踏まえて友人として解決しようじゃないか」と平和条約締結後に友好国として領土問題の解決を図ろうと呼びかけたものです。

日本政府は「北方領土問題を解決して日本とロシアの国境を画定したうえで平和条約を締結する」という基本姿勢を堅持してきました。プーチン提案に安倍首相が同意すれば、対露政策の大転換となります。

プーチン大統領の提案を受けて、日本の対露政策の大転換はありうるのでしょうか?大前研一学長の意見を聞きます。

プーチン大統領の提案に安倍首相が無言だったのはシナリオ通り?

当然、安倍首相の対応が注目されたが、首相は答えずに「苦笑い」していたとか、「微妙な微笑み」だったという。「プーチン大統領のちゃぶ台返し」とか「交渉を乱すくせ球」とか「何の反論もしなかった安倍首相はけしからん」とか日本のメディアや野党は騒いだが、的外れもいいところだ。

プーチン大統領のような百戦錬磨のタフなリーダーが「今思いついたこと」を公の場で素直に口にするはずがない。プーチン提案は安倍首相と重ねて話し合ってきたことの一部を公開して、状況を動かすための「演出」と考えるほうが自然だ。

領土問題というのは強力なリーダー同士のトップダウンでなければ解決は難しい。両国で長期政権の仕上げの段階に入った今ほど、絶好のタイミングはないのだ。しかも日本にシンパシーを抱いているプーチン大統領である。このチャンスを逃せば、たとえばメドベージェフ首相などが後継すれば北方領土問題を解決する扉はまた固く閉ざされてしまいかねない。

安倍首相は件の東方経済フォーラムでこう演説している。

「プーチン大統領、もう1度ここで、たくさんの聴衆を証人として、私たちの意思を確かめ合おうじゃないですか。今やらないでいつやるのか、我々がやらないで誰がやるのか……。平和条約締結に向かう私たちの歩みに皆様のご支援をいただきたいと思います」

このスピーチを受けてのプーチン提案だった。この問題に関して安倍首相はよく理解しているし、解決できるのは安倍首相しかいないと思う。“思いつき”のプーチン提案に驚くでもなく、ムキに反発するでもなく、無言で受け流したのは正解、というよりシナリオ通りだったに違いない。

日本は「ダレスの恫喝」以降、四島一括返還を急遽主張し始めた

日露間の領土問題が動かなくなってしまった元凶は「ダレスの恫喝」にある。ダレスの恫喝とは1956年8月に日本の重光葵外相と米国務長官のジョン・フォスター・ダレスが会談した際の出来事のこと。

ダレスは沖縄返還の条件として「北方四島の一括返還」をソ連に求めるように重光に迫った。東西冷戦下で、領土問題が進展して日ソが接近することをアメリカは強く警戒していたのだ。日ソの国交回復は56年10月に調印された日ソ共同宣言でなされる。共同宣言には日ソが引き続き平和条約の締結交渉を行い、条約締結後に歯舞、色丹の二島を引き渡すと明記されている。しかし当時、「ダレスの恫喝」によって日本政府は「四島一括返還」を急遽主張し始めたために、平和条約の締結交渉は頓挫して、領土問題も積み残された。

「前提条件なしに平和条約を結ぶ。その後、争いのある問題は友人として解決する」というプーチン大統領の提案は、日ソ共同宣言のスタンスに基づいている。実際、00年に来日したプーチン大統領は「56年宣言(日ソ共同宣言)は有効」と語っている。

16年に来日した際には首脳会談後の記者会見で、わざわざ「ダレスの恫喝」にまで言及した。プーチン大統領と安倍首相は幾度となく会談を重ねる中で、こうした歴史認識を共有したと思われる。「ダレスの恫喝」がロシア側の一方的な認識であれば、トップ同士で合意を得た首脳会談の後に持ち出すわけがない。

日露のボタンの掛け違いは「ダレスの恫喝」というアメリカの横槍で生じた。ならばもう1度、56年宣言に立ち返って、平和条約の締結から始めよう。条約締結後に領土問題を解決しようというプーチン提案を安倍首相はどこかの段階で受け入れると私は思う。

領土問題を解決して国境線を画定してから平和条約を結ぶという従来のアプローチでは、日露関係は何一つ動かない。これを動かすためには、アプローチを変えて先に平和条約を持ってくるしかない。そのことを安倍首相は十二分に理解しているはずだ。

しかし平和条約を先行すれば、結果として北方領土問題は棚上げになる。当然、世論の反発が予想されるが、これを乗り越えるためには日本政府と外務省は国民に1度頭を下げて詫びなければいけないと思う。なぜなら「北方領土はわが国固有の領土」などとナショナリズムを煽る誤ったプロパガンダで国民世論を先導してきたからだ。

北方領土の領有は第二次大戦戦勝国のソ連が獲得した正当な権利

「風土病」と私は呼んでいるが、それぞれの国には政府のプロパガンダによって刷り込まれ、国民の間に根付いた都市伝説のような「歴史」がある。

「北方領土は日本固有の領土であり、ロシアが不法に侵攻、占拠して実効支配を続けている。北方領土が返る日が、平和の日。北方四島が戻ってくるまで、平和条約なんてありえない」というのも典型的な日本の風土病だ。そもそも北方領土はアイヌ民族固有の土地ではあったかもしれないが、「日本固有の領土」と証明されたことは1度もない。領土というのは実効支配したもの勝ちである。これは世界共通のルールで、納得できなければ力で奪い返す以外にない。

北方領土の領有は第二次世界大戦の結果、戦勝国のソ連が獲得した正当な権利、とロシアは主張する。戦後処理の流れを精査すると、ロシアの言い分は正しい。北方領土は戦勝権益としてロシアに与えられて、米国以下の連合国から承認された。「日本固有の領土」と主張するのは、日本が第二次世界大戦の結果を受け入れていないことになる。だからプーチン大統領やラブロフ外相からことあるごとに「第二次世界大戦の結果を受け入れるのが話し合いの原点」と言われるのだ。

安倍首相はプーチン大統領と何度も話し合って、領土問題の因果を深く理解しているはずだ。まずは平和条約を結ぶ。その後に友人であるロシアの善意と日本の見返りをバランスしながら領土問題を解決していく。今後ロシアとそうした交渉をしていくためには、北方領土に関する日本の風土病を我々自身が克服することがきわめて重要だ。

とはいえ政府や外務省が国民に突然頭を下げるわけがない。従って、たとえば日露関係や北方領土問題を正しく見つめ直すための有識者会議を組織して、政府にクレバーな日露関係のあり方や北方領土問題の解決の仕方を提言させる。決して簡単なことではないが、そうした形で歴史を正していけば国民の納得と理解も得られやすいと思う。

大前研一

プロフィール マサチューセツ工科大学(MIT)大学院原子力工学科で博士号を取得。日立製作所原子力開発部技師を経て、1972年に経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク入社後、本社ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を歴任し、1994年に退社。スタンフォード大学院ビジネススクール客員教授(1997-98)。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)公共政策大学院総長教授(1997-)。現在、株式会社ビジネス・ブレークスルー代表取締役会長。ビジネス・ブレークスルー大学学長。豪州BOND大学名誉教授。