大前研一メソッド 2022年11月22日

故・稲盛和夫氏は政治的野心家だった——。大前研一が意外な実像を語る

大前研一(BBT大学大学院 学長 / BOND大学教授 / 経営コンサルタント)
編集/構成:mbaSwitch編集

京セラの稲盛和夫名誉会長が2022年8月に死去しました。稲盛氏は故・松下幸之助氏と並び“経営の神様”と称されます。1997年に65歳で在家得度して僧侶となり、人生哲学を説いた『生き方』はロングセラーになりました。海外にも稲盛ファンが多くいます。海外での人気ぶりは、中国外務省が稲盛氏の死去を受けて定例会見で弔意を示したことからもうかがえます。

稲盛氏の訃報に関するニュースでは、「フィロソフィ」などの哲学や心を教える盛和塾がよく取り上げられました。意外にも政治的野心家だったことは知られていません。稲盛氏の実像をBBT大学院・大前研一学長が紹介します。

『財界総理』になる野心を大手町文化に阻まれ、仏門に帰依

私の知る稲盛氏は、ギラギラと脂ぎった野心家だった。私は1992年、「サイレントマジョリティー(物言わぬ多数派)の国づくり」を掲げて、平成維新の会を立ち上げた。政策提言のための勉強会を毎月開催していたが、その常連メンバーであり、1995年に都知事選に私が出馬したときに面倒を見てくれたのが、稲盛氏だった。

稲盛氏は財界活動に熱心だった。当時の京セラは、経団連に名を連ねる企業と比べても破竹の勢いで伸びていた。すでに関西を代表する経営者となっていた稲盛氏は、中央に攻め上る気持ちで東京に出てきたに違いない。

ところが、「財界総理になる」という野心は大手町文化に跳ね返された。経団連の連中は東京大学卒ばかりで、「『東大卒でなければ話にならない』という傲慢さがあった」という。鹿児島大学卒の稲盛氏は、「田舎の無名大卒のやつに経団連会長が務まるわけがない」と鼻であしらわれてしまった。

その後、得度した背景には、財界での露骨ないじめ体験があったからだと思う。中央で偉くなるという野心をあきらめて、自分なりの道を探そうと仏門に帰依したのだ。

自分の代わりとして、小沢一郎氏に天下を取らすべく応援

ただ、自身の天下取りをあきらめた後も、野心を捨てたわけではなかった。自分の代わりに、ある政治家に天下を取らせようと骨を折り続けた。その政治家とは、小沢一郎氏である。

稲盛氏には“独占的”な存在を倒したいという気概があった。その思いとビジネスセンスが結びついたのが、1984年の第二電電の設立だ。米国では1984年、通信を独占していたAT&Tが分割された。その様子を見て、日本でも日本電信電話公社(現NTT)の牙城に挑戦することを思い立った。

ただ、新しい通信会社の設立には、電波の割り当てや許認可で行政を動かす必要がある。当時の自民党の中で「通信の世界にも競争を取り入れるべきだ」と理解を示したのが、党内で力をつけつつあった小沢氏だった。小沢氏の働きで第二電電の設立に漕ぎつけた稲盛氏は、以降、小沢氏のシンパとなり、小沢氏が自民党を離れた後も陰のスポンサーとして応援し続けた。

小沢氏が民主党に移ってから、稲盛氏から一本の電話がかかってきたことがある。いつも私に用があるときは、秘書の大田嘉仁(よしひと)氏が電話をかけてくる。稲盛氏から直接の電話は、非常に珍しい。何かと思ったら、用件は小沢民主党の応援だった。

「重要な局面だ。民主党の応援をしたい。日経新聞の一面をキープした。あなたと私の名前で広告を出そう」

もともと私と稲盛氏の政策的な考えはほぼ一致している。しかし、あの段階で民主党支持と旗幟(きし)鮮明にするつもりはなかった。声をかけてもらったことに感謝しつつ、結局、「民主党ではなく稲盛さんなら応援します」と言ってお断りした。

稲盛氏は自分ひとりで目立つことは避けたかったのだろう。広告の出稿はやめて、別の形で民主党を応援したと聞いている。一面広告は実現しなかったものの、それをやろうと画策するくらいに真剣に小沢氏を応援していた。

堺屋太一と大前研一の協力関係構築を画策

平成維新の会は、道州制や地方自治をテーマの一つにしていた。ユニットに力を与えて全体を活性化させるという点で、稲盛氏が提唱したアメーバ経営と通じるものがある。稲盛氏は日本のアメーバ経営を実現したかったのだろう。勉強会に来るたび、私に「あなたが国を変えないといけない」と話していた。

ある日、夕食に誘われた。行くと、堺屋太一氏がいた。当時、世間では気鋭の評論家をまとめて“一太郎三ピン”と呼ばれていた。一太郎は長谷川慶太郎、三ピンは竹村健一、堺屋太一、そして大前研一である。稲盛氏はそのうちの2人を呼びつけ、持論を滔々(とうとう)と述べた後、私たちを熱く見つめた。

「いまこの部屋には日本を代表する2人のブレーンがいる。あなたたちが協力し合えばこの国は変わります。握手しなさい」

私は言葉に詰まってしまった。堺屋氏が嫌いなわけではない。堺屋氏とは事務所が近く、道ですれ違えば立ち止まって話をする程度には仲が良かった。しかし、堺屋氏は「自分の考えがすべて」という一匹狼で、考えの違う人とすりあわせて一緒にやっていくタイプではない。組んでも空振りになることが見えていたので、何も言えなかったのだ。

堺屋氏は大人で、ひとまず稲盛氏の顔を立てようと考えたのだろう。尻込みする私に、「女子プロレスはお好きですか。来週、試合があります。一緒にいかがですか」とチケットを差し出した。女子プロレスに興味はなかったが、さすがに断れずに受け取った。

翌週、出張から帰ったその足で後楽園ホールに直行したが、到着したら試合は終わっていて、パイプ椅子の撤去が始まっていた。事情を話して許してもらったが、手を組む話は立ち消えに。堺屋氏はもちろん、稲盛氏にも不義理をしてしまった。

経営破綻したJALの会長に就任。大前研一は猛反対するも、翻意せず

経営破綻したJALの再生を手がけることになった経緯も、稲盛氏らしい。2009年に民主党が政権を取った後、国土交通大臣になった前原誠司氏と会食をしたことがある。私は「JALの立て直しの指揮を執るのは、航空会社の再生実績がある外国人のプロ経営者がいい」と勧めた。航空会社の立て直しはプロにやらせればそれほど難しくない。しかもJALは組合が強く、日本人経営者ではうまくいかない可能性が高い。

しかし、前原氏は「実はもう稲盛氏に頼んだ」という。私はあわてて稲盛氏に電話をかけ、「断ったほうがいいですよ」と助言した。

飛行機の燃費はパイロットの腕に左右される。再生のために、下手なパイロットに改善を求める場面も出てくるだろう。しかし、注意された側はおもしろくない。重大な事故が起きれば、「稲盛氏のコストカットのせいで事故が起きた」と吹聴(ふいちょう)しかねない。稲盛氏を大事に思うからこそのアドバイスだった。

しかし、翻意させることはできなかった。前原氏の選挙区は京都だ。昔から応援してきて、ようやく大臣になった喜びもあったのだろう。「受けたからやる」とJALの会長に就任した。

いい意味で私の予想が裏切られたことは周知のとおりだ。腹心の大田氏を帯同して乗り込み「JALフィロソフィ」などで組合まで味方につけ、アメーバ経営の手法で見事に再生。破綻から2年8カ月というスピードで株式再上場を果たした。まさに経営の神様の面目躍如だった。

財界活動をネガティブ視していた故・松下幸之助氏とは対照的

同じく経営の神様と呼ばれた存在に、パナソニック(旧松下電器産業)の創業者、松下幸之助氏がいる。私は両者に親しくしてもらった数少ない人間だと思うが、同じ経営の神様でも二人はタイプが明確に違った。

松下氏は財界活動に関心がなく、むしろネガティブにとらえていた。経営者が自社の経営のこと以外に関心を持つのはけしからんというわけだ。

一方、稲盛氏は日本を変えたいという政治的野心に突き動かされていた。エスタブリッシュメントが支配する構造を在野から変えることが生涯の目標になり、得度後もそれは揺るがなかった。日本を変えたいという思いは、むしろ執念に近かった。その望みは叶わなかったが、世界に知られる名経営者として一生を閉じた。謹んでご冥福をお祈りしたい。

※この記事は、『プレジデント』2022年12月2日号 を基に編集したものです。

大前研一

プロフィール マサチューセツ工科大学(MIT)大学院原子力工学科で博士号を取得。日立製作所原子力開発部技師を経て、1972年に経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク入社後、本社ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を歴任し、1994年に退社。スタンフォード大学院ビジネススクール客員教授(1997-98)。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)公共政策大学院総長教授(1997-)。現在、株式会社ビジネス・ブレークスルー代表取締役会長。ビジネス・ブレークスルー大学学長。豪州BOND大学教授。