大前研一メソッド 2022年7月26日

大前研一、自身の後継問題を考える

後継者

大前研一(BBT大学大学院 学長 / BOND大学教授 / 経営コンサルタント)
編集/構成:mbaSwitch編集部

カリスマ的な経営者が、社長を退任後に再登板するケースが散見されます。
優秀な経営者ほど、自分と比較して後継者である新社長に物足りなさを感じ、新社長を解任して自分が復帰しがちなのだとBBT大学院・大前研一学長はその原因を分析します。
カリスマ的な経営者が抱えてきた後継問題の具体的な例を見てみましょう。
大前学長も、来年2023年2月には80歳を迎え、ビジネス・ブレークスルー(BBT)の事業継承が間近に迫っています。大前学長自身の後継問題をどう考えるのかについても聞きました。

日本電産:永守重信氏

2022年6月17日に開かれた日本電産の株主総会が話題になった。創業者の永守重信会長が、同席した関潤社長について「社長はまだ見習い。いま一生懸命教えている」と語ったというのである。

関氏は日産自動車から2020年に日本電産に移り、2021年6月に永守氏の跡を継いでCEO(最高経営責任者)に就任した。しかし2022年4月、同社の株価が下落したことに永守氏が「耐えられない水準だ」と苛立ち、CEOに復帰した。株主総会では、関社長が逃げださない限りは後継者として育てると話し、関氏のほうも「逃げる気はまったくない」と話したというのだから、聞いていられない。

ただ、永守氏のような名経営者が「世継ぎ」(事業継承)に苦労するのは珍しいことではない。優秀な経営者ほど、自分と比較して物足りなさを感じ、新社長を解任して自分が復帰しがちだ。

会長に退きながらも実権を握り、すぐ表舞台に戻れる状態は「回転ドア」のようだ。オリックスの宮内義彦氏、ファーストリテイリングの柳井正氏、スズキの鈴木修氏、キヤノンの御手洗冨士夫氏、エイチ・アイ・エスの澤田秀雄氏など、多くの経営者が「回転ドア」を用いてきた。

【表】カリスマ的な経営者が、社長を退任後に再登板するケースが散見される
カリスマ的な経営者が、社長を退任後に再登板するケースが散見される

オムロン:立石一真氏

他社から優秀な人材をヘッド・ハンティングしても、自分の経営イメージが強いから、そのイメージを踏襲してほしいのだろう。しかし、「後継者は自分とは別人だから、経営スタイルが違って当然」という発想を本来はしなければならない。

1970年代後半、私が30代の頃だが、オムロン創業者の立石一真氏と事業継承についてよく話した。立石氏の年齢は70代半ばだったから、「早く後継者を決めて社長を譲りなさい」とたびたびアドバイスした。立石氏は「私は1日に数百枚の稟議書を決裁している。別の人なら5日で1件が精一杯だ。私が社長のほうが効率がいい」という。

そこで、私は妻にクルマの運転をマスターしてもらった経験を話した。私が日立製作所に勤めていた頃、先輩から中古のカローラを10万円で買った。アメリカ人の妻は「道が狭い日本で運転するのは怖い」と運転を嫌がったが、こちらは長距離ドライブの際は途中で代わってほしいから一緒に練習することになった。

「どこかにぶつけても、修理代は16万円まで我慢するよ」とあらかじめ上限を示した。すると、彼女は2回ぶつけたけれど、修理代は16万円に収まった。それからは、私が助手席で居眠りできるぐらい上達した。

立石氏にこの経験を話し、「後継者の育成も同じです。はじめに何億円までは失敗しても許すと上限を示してから、横について見守る。そのうち居眠りできるようになりますよ」と説明した。そして立石氏はようやく決意を固め、1979年に長男の孝雄氏に社長を引き継いだ。

自ら手を出したり、経営スタイルを押しつけたりするのは禁物だ。後継者育成は、経営者の忍耐力が試される。名経営者ゆえの試練なのだ。

パナソニック:松下幸之助氏

歴史に残る名経営者を思い浮かべても、後継者選びがうまくいった例は少ない。

松下幸之助氏も世継ぎには苦労した。幸之助氏は66歳で娘婿の正治氏に社長をバトンタッチして、本人は会長となった。新社長は全国のナショナルチェーンを近代化・合理化するなど販売網の大改革を進めた。

ところが当時は不況でもあり、全国に赤字の販売会社や代理店が続出。1964年に熱海で開かれた販売会社や代理店との懇談会は、集まった社長たちが幸之助さんに窮状を訴える場となった。「ナショナルチェーンのやり方をずっと守ってきたのに松下電器の犠牲になった」「こんな改革は受け入れられない」というわけだ。

この「熱海会談」をきっかけに幸之助氏は現場に復帰する。ただし社長ではなく、営業本部長代行だった。「経営の神様」でも、後継問題は円滑に進まず難しいのだ。

ヤマハ:川上源一氏

「ヤマハ中興の祖」と呼ばれた川上源一氏の社長交代の話もよく知られている。

川上氏は38歳のときに3代目社長の父から経営を引き継ぎ、27年近く社長を務めた。その間にピアノの生産量は世界一となり、オートバイ事業に進出してヤマハ発動機を創業している。
1977年に65歳で会長に退き、46歳の河島博氏に社長を任せた。このとき川上氏が言った「足元が明るいうちにグッドバイ」は事業継承の名言だと評判になった。

ところが河島氏と経営方針を巡って対立し、1980年に河島氏を解任して社長に復帰した。せっかくの名言は実現しなかったわけだ。川上氏は、1983年に息子の浩氏が社長になったあとも会長、相談役として経営に参加していた。

名経営者がスパっと辞めたケース

世継ぎがうまくいくのは、名経営者がスパッと辞めたケースで、本田宗一郎氏が代表だろう。
本田氏はホンダ創業25年の1973年に、副社長の藤沢武夫氏と一緒に引退した。本田氏が技術部門、藤沢氏が管理部門という二人三脚のまま会社を去り、世襲もなかった。

藤沢氏は後継者の問題を深く考えて、「われわれの経営を踏襲するのは難しい。次の社長を決めたら、2人とも出社しないことにしよう」と話し、嫌がる本田氏を説得したようだ。次の社長は大卒入社の第1号にあたる河島喜好(きよし)氏に決めた。

本田氏は技術者だから、技術部隊の本田技術研究所は遊び場のようなものだ。翌日からピタリと出社しないのは、相当に辛かっただろう。

ホンダ元副社長の西田通弘(みちひろ)氏の著書『隗かいより始めよ』などを読むとよくわかる。朝は、これまでの習慣でとにかく家を出る。気がつくと、会社の方角にクルマを走らせているから、あわてて別の行き先を考える。彼の悶々もんもんとする気持ちは、涙が出そうなほどわかった。会社を訪れるのは年に1回か2回、社内のイベントに参加するだけと徹底していた。

もし藤沢氏と同時に辞めなければ、本田氏も戻ったに違いない。彼が出社すれば、経営陣も技術者も言うことを聞く。技術面でいろいろと口を出し、引き継ぎはうまくいかなかった可能性もある。

一方で、世襲が期待以上の成果を出したケースもある。

ワコールを創業した塚本幸一氏は、息子の能交(よしかた)氏にバトンタッチする前は「大丈夫だろうか」と相当心配していた。しかし1987年に能交氏が社長になると、創業者の経営を立派に踏襲して世界的な企業に成長させた。親の期待を超えて世襲がうまくいった例は、堀場製作所の堀場雅夫氏から一代おいて息子の厚氏が継いだケースや村田製作所などいくつかある。

BBTの後継問題

わが身を振り返れば、BBTは、現社長の柴田巌(いわお)が今では日本トップクラスのバイリンガル・スクール事業を強力に進めるなど多くの分野で頑張っている。彼は人の話をよく聞くし、なるべくコンセンサス(合意)で物事を前に進めようとする。時々私が何か言うときに、むしろ重荷を感じるくらいだ。さらに、副社長の政元竜彦はCCO(チーフ・コンテンツ・オフィサー)で、あらゆる経営者に目を光らせていて、面白い人がいるとすぐにコンテンツ化してくれる。

私には息子が2人いるが、それぞれ事業を興しているから世襲はない。

それに、授業コンテンツを約2万時間分蓄積してきた。『学問のすゝめ』や『西洋事情』を著した福沢諭吉が創設した慶應義塾は160年以上続いているわけだが、私は『企業参謀』以来500点以上の内外での出版もある。IRや株主総会で「大前がトラックにひかれたらどうなるのか?」というような質問を受けることもあるが、私の考えは克明に記録に残されているし、人材も育っている。BBTは心配には及ばない。

※この記事は、『プレジデント』誌 2022年7月29日号 『大前研一ライブ』 2022年5月1日放送 を基に編集したものです。

大前研一

プロフィール マサチューセツ工科大学(MIT)大学院原子力工学科で博士号を取得。日立製作所原子力開発部技師を経て、1972年に経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク入社後、本社ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を歴任し、1994年に退社。スタンフォード大学院ビジネススクール客員教授(1997-98)。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)公共政策大学院総長教授(1997-)。現在、株式会社ビジネス・ブレークスルー代表取締役会長。ビジネス・ブレークスルー大学学長。豪州BOND大学教授。