第107回 『「民主党の戦い」は、ここからが本番!?!?』
民主党が圧勝しました。武力というような物騒な方法ではなく、正々堂々と政権を奪取したわけですから、「国民の想い」をしっかりと受け止め、これまでの自民党の政策、特に「市場原理主義」的な政策には「必ず終止符を打つ」など、マニフェストに沿って、実効ある政策を推し進めてほしいものです。
また、選挙戦でも盛んにアピールしていた「脱官僚」についても本腰を入れて実行し、国民目線による予算の適正な執行を目指していただきたいと思っています。
個々の官僚が「悪い」という意味ではないのですが、現状の予算配分のメカニズムを考えれば、非効率な使われ方になってしまうのも当然だと思います。それを変えていくためには、予算配分メカニズムに、政治(国民)が「どのように絡んでいくか」ということがポイントになると私は考えています。
ここで「現在の予算配分メカニズムでは非効率な使われ方になってしまうのは当然」と書きましたが、この点について、まず、簡単に解説します。
本来、予算配分は「必要額を積み上げていって、その総額を要求する」というのが筋であり、当局からすれば「そうなっている」と話すはずです。が、各省の予算が、毎年、ほぼ同じ額なっていることからみて、実際には別のメカニズムが働いていると考えられます。つまり予算は、各省がある程度慣例に従って大枠を決め、完全に終了してしまったプロジェクトを別のものに置き換える時にも、その金額を代替前のプロジェクトの金額と同じになるように調整している可能性があると思われます。
「いやいや、そのようなことはなく、必要額を積み上げたら、たまたま同じ額の請求になっているだけだ」と反論されるかもしれませんが、「たまたま同じ額」というのは「如何なものでしょうか」と思ってしまいます。しかもその「必要額」が、国民の目からみれば「無駄」である場合も多いのであり、「今まで行っていたから」「先例に従い」という部分があるのであれば、それは「精査していない」のと同じであり、単に大枠だけを決めて「そこに適当に政策を付けただけではないか」と言われても仕方ないのではないでしょうか。
このようにならないためには、予算を作る場合、毎年、"ゼロベース"で見直しをする必要があるとともに、個々の政策の必要性を国民サイドで精査することが大切になってきます。実際、民主党は「マニフェストに従い、国民にとって重要度の高いものからやっていく」と言っているので、今までのやり方を根本的に変えて、官僚が無駄遣いできないようなシステムに、是非、作り変えてもらいたいと思っています。
とはいえ、"ゼロベースで見直す"場合、「どのくらいの金額が妥当なのか」「費用対効果はどうなのか」「そもそも必要な政策なのか」など、いろいろと考えなくてはいけないことが沢山あり、しかも、それぞれ高度な専門性が求められます。そのような専門性をすべての国会議員が持っているということはないので、その点においては専門家である官僚が関与することになってきます(このような能力は、官僚の方が遥かに高い能力を持っています)。となると、予算策定メカニズムの中に官僚がある程度イニシアチブを持って参加することは避けられないことになります。
したがって、国会議員が音頭を取るとしても、実際に予算を作ってくるのは官僚なので、やはり、そこでは官僚の思惑が働き、国民にとって有益な予算にならない可能性も否めません。
以下、新しい経済学の分野であるゲーム理論の「囚人のジレンマ」という有名な考え方を使った簡単なモデルにより、官僚が出してくる予算案が、どうしても非効率なものになるということを説明します(これは単にモデルであり、現実とは異なる部分もあります)。
話を簡単にするため、官僚が2人(X省の官僚AとY省の官僚B)いて、それぞれ各省の予算案を策定するものとします。ここでX省およびY省は、全く違った役目を担っているが、予算規模は歴史的にほぼ同じくらいとします。また、官僚Aも官僚Bも「一国民」なので、予算が非効率に使われることを「快」とはしないのですが、サラリーマンでもあるので、所属する省の「省益」というものは大切に考えているとします(ここでの「省益」とは、他の省との関係において、予算規模に比較優位があることとします)。
ここで予算規模を見直すように言われ、やることを"ゼロベース"で積み上げるように指示されたとします。とはいえ、「見直し」なのだから、暗黙の条件として、現状の予算規模がシーリング(天井)になっているのは、両人とも理解しているとします。
この場合、官僚Aは「(1)内容を見直し、減額要求の予算を策定する(以下、「減額要求」)」「(2)内容を見直したが、結局は当初と同じ規模の予算を策定する(以下、「現状維持」)」のどちらかを選ぶことになります。国民の期待は(1)の「減額要求」であり、官僚Aもそれを期待されていることはわかっているはずです。これは官僚Bも同じです。
そこで官僚Aが(1)の「減額要求」を選んだとします。その時、官僚Bは(1)を選ぶでしょうか、(2)を選ぶでしょうか?
官僚BとしてはAが(1)を選んでいる以上、総予算規模(Aの予算案、プラス、Bの予算案)で考えれば、目標は達成されているのだから、自分(B)が(1)を選ぶ必要はなく、(2)の「現状維持」を選ぶことの方が合理的になります。
他方、官僚Aが(2)の「現状維持」を選んだとします。その時、官僚Bは(1)を選ぶでしょうか、(2)を選ぶでしょうか?
官僚BとしてはAが(2)を選んでいる以上、ここで自分(B)が(1)を選ぶと、Y省の予算規模が減少するので「省益が保てない」と考えるはずです。それはサラリーマンとしては許せないわけですから、Bは(2)の「現状維持」を選ぶことの方が合理的となるわけです。
ここまでは官僚Aに対する官僚Bの反応を見てきましたが、順番が逆でも結果は同じになります。つまり、官僚Aも官僚Bも、国民の意に反して「現状維持」を選んでしまうのです。これは「ナッシュ均衡」と呼ばれる状態なのですが、この均衡はお互い(官僚A、および、官僚B)にとって、非常に安定した状態であるため、官僚自身に任せていたのでは改善させることはないのです。
このモデルはかなりざっくりとしたものなので、現実はこれほど簡単ではありませんが、「何故、お互いが減額要求にならないのか」といえば、「省益」を考える官僚が予算の策定に関わっているからであると考えられます。
そのため「予算を政治主導で作る」には、予算策定のかなり早い段階から政治が関与することが必要であるということがわかります。そこで民主党では「100人を超える国会議員を霞が関に送り込む」といっているわけです。実際の「数」がこれで足りるのかは不明ですが、方針としては間違っていないように思います。ただ「ミイラ取りがミイラになる」という言葉もあるように「第二の族議員を作っただけ」という可能性もありますから、各省に送り込まれた国会議員は、あくまでも「国民の代表である」という意識を忘れないようにしてほしいと思います。つまり、当然のことですが、送り込まれた国会議員は「省益よりも国益」ということを念頭に頑張っていただきたいと思います。
他方、国民サイドでも民主党を軸とした政権がなったということで、日本版"Yes , we can!"が実現したわけですから、とりあえず、しばらくは「期待を持って見守る」という姿勢が大切だと思います。革命に近い状態なのですから、早急に判断せず、温かい目で支えてあげることも必要なのではないでしょうか。
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