
この論文から学ぶべき「大前研一メソッド」
<国家の意思決定は、制度ではなく“リーダーの執念”で動く>
習近平総書記を理解する鍵は以下の二つであることを特定した。
・領土拡張(清朝版図の復活)
・鄧小平路線の否定(個人的・歴史的執念)
国家戦略をトップの「行動原理」から読み解く思考法。
2026年4月、台湾の最大野党である中国国民党の鄭麗文主席が、中国共産党に招かれて北京で習近平総書記と会談しました。習近平総書記は、この会談で台湾の巻き取り戦略を進める構えだとBBT大学院・大前研一学長は分析します。香港で成功した「巻き取りモデル」が台湾にどう適用されるのか、そしてその限界を解説します。
大前研一(BBT大学大学院 学長 / BOND大学教授 / 経営コンサルタント)
編集/構成:mbaSwitch編集部
もともと中国共産党と国民党は、中国大陸で内戦をしていた犬猿の仲だった。敗れた国民党の蒋介石は台湾に中華民国政府を移転。長年いがみあってきたが、台湾の民主化で風向きが変わった。1986年に結成された民主進歩党(民進党)は、台湾共和国の建設を掲げて党勢を拡大。新たに国をつくるのは、国を2つにするということ。台湾の統一を目論む中国共産党にとって、独立派の民進党こそが不倶戴天の敵になった。
一方、国民党はあくまでも自分たちが中国の正統な政府だという立場である。それが中国共産党の主張する「一つの中国」というスローガンと合致して、両党は接近するようになった。
たとえば2016年に選挙で民進党の蔡英文総統が誕生すると、中国は台湾政府との公式な対話を拒否。一方、その年の秋には国民党の洪秀柱主席を招いて会談している。中国共産党の国民党びいきは明白である。
今回の鄭麗文主席の訪中により、約9年半ぶりの国共トップ会談が実現した。会談では「一つの中国」をお互いに確認している。宥和ムードを受けて、中国政府は中台間の航空便の全面再開や台湾産農水産物の輸入など、これまで台湾にかけていた規制の一部を緩和すると発表した。
これは習近平総書記が鄭麗文主席に渡したお土産だと考えればいい。台湾の有権者に向けて、「国民党を支持して親中政権が誕生したらいいことがある」とメッセージを送り、鄭麗文主席を支援したわけだ。
中国はどうしてこれほどまでに優遇したのか。理解するには、習近平総書記を貫く2つの行動原理を知っておいたほうがいい。一つは領土に関する野心だ。習近平総書記の夢は清朝の版図を復活させること。ロシアの極東地域も狙っているし、太平洋では九段線を主張して、フィリピンやベトナム南シナ海の島の領有権を争っている。もちろん台湾も清朝が支配していた。
もう一つは、1980年代の最高指導者、鄧小平の否定だ。習近平の父、習仲勲は党中央委員だったが、鄧小平の陰謀で失脚させられて、16年間に及ぶ投獄・軟禁生活を余儀なくされたといわれる。習近平総書記は、父を陥れた鄧小平を許せない。鄧小平は毛沢東の計画経済を転換して改革開放路線で経済を立て直したが、その功績を認めたくない習近平総書記は、中国の歴史における鄧小平の存在を矮小化。一方で毛沢東をほめたたえ、自分が後継者であるかのように振る舞っている。
また、鄧小平は独裁を防ぐため、憲法で国家主席に「2期10年」の縛りをつけた。習近平総書記はこのルールも気に食わず憲法を改正。さらに、自分の対抗馬になりうる政治家——たとえば、李克強元首相をはじめとするライバルを次々にパージし、薄熙来元重慶市中国共産党委員会書記も投獄している。終身総書記を狙っているのだろう。
清朝の版図復活と、鄧小平の否定。この2つの行動原理がよく表れていたのが香港の巻き取りだった。
香港は英国に割譲・租借されていたが、租借期限の1997年に中国に返還された。返還交渉の過程で、鄧小平は「一国二制度」、つまり香港は中国領だが、本土とは別の体制で自治を認めることを提案。返還後50年間は一国二制度を維持することを約束している。
しかし、習近平総書記は約束を守るつもりはなかった。鄧小平と英国の元首相マーガレット・サッチャー間の約束である一国二制度を骨抜きにして、香港を実質的に支配下に置こうとしたのだ。
まず狙われたのは行政長官だ。行政長官は普通選挙で選ばれる予定になっていたが、それに先駆けて中国は中央政府の意にそぐわない人物を候補にしない方針を示した。2014年、香港市民はそれに抵抗して雨傘運動を展開したが、政府は死者を出すことなく抑え込むことに成功した。
2021年には民主派議員を排除するために立法会の議員資格に手を入れた。コロナ禍前から民主化デモは活発化していたが、政府は弾圧を続けて沈静化。抗議活動の一員だった周庭(アグネス・チョウ)氏はカナダに逃げるように留学したが、香港警察はしつこく彼女を指名手配し、留学先で亡命を表明している。
言論統制も進んだ。2026年3月、民主的な論調で知られた「リンゴ日報」発行元の法人登記を抹消して禁止組織に指定。創業者の黎智英(ジミー・ライ)氏も禁錮20年の判決。中国は軍事予算より、国内の治安を取り締まる公安予算が多い国。結果として鄧小平の約束は反故にされ、香港は実質的に一制度になっていた。
対応を間違えれば、第二の天安門事件が起きていてもおかしくなかった。そうなれば約束を破られた英国をはじめ西側諸国が抗議し、経済制裁に発展するおそれもあった。外交上の緊張を高めることなく香港を巻き取った習近平総書記は、成功事例として捉えているはずである。
習近平総書記は香港方式を台湾に適用し巻き取ろうとしている。最終的に目指すのは恐怖政治だが、香港方式を実行するにはまず台湾の有権者を安心させて一国二制度を実現しなくてはいけない。国民党の鄭麗文主席を大歓迎したのは、その布石だったのだ。
ただ、台湾の人が中国になびくとは思えない。仮に国民党候補が総統選挙で勝利して親中政権が誕生しても、政治体制に影響はないだろう。
国民党の馬英九主席が総統に就任した2008年以降、台湾は通信、通航、通商の拡大という「大三通」政策を進めた。「あの時代をもう一度」と懐かしむ人が現在、国民党を支持している。しかし、香港のように選挙制度が歪められることには、国民党支持者も警戒感が強い。
私は1990年代に李登輝総統のアドバイザーを務めていたが、李登輝総統も選挙制度についてはこだわりが強く、よくこう話していた。
「中国の歴史上、民衆がトップを選んだのは台湾が初めてだ。中国大陸が同じような選挙をしてトップを選ぶなら、北京を盟主とする“中華連邦”をつくってそこに入ってもいい」
今の国民党支持者の感覚も、これに近い。共産党総書記が独裁的な体制を敷く今の中国と一緒になることに賛成する人は皆無に近い。
唯一のアキレス腱は、外省人と本省人の分断である。国民党と一緒に台湾に渡ってきた人は戸籍を大陸に残し、子らも大陸籍のままだ。これらの人々は外省人と呼ばれ、それ以前から台湾に住んでいた本省人と区別されている。
外省人・本省人の区別は差別につながり国家分断の火種になる。私は中国のつけいる隙をなくすため、李登輝総統に、「台湾生まれの人はすべて台湾籍に」と提言したことがあるが、「今やると外省人長老が支配する議会で軋轢が大きくなる。いずれ時間が解決します」とやんわり却下されてしまった。
台湾でアンケートを取ると、自身のアイデンティティーを「台湾人」と認識する人が今や6割強に達している。外省人と本省人の区別が薄れつつあるのだが、根っこにある戸籍問題はいまだにノータッチ。中国による分断工作が進む前に解決しておけば万全だった。
私は香港方式による巻き取りは難しいと考えるが、そもそも中国はほかに手がないのが実態だ。
習近平総書記は、軍事力を背景にした統一も視野に入れて軍事力を強化してきた。核弾頭は約600発で、空母はすでに3隻あり、計画中の4〜5隻目は原子力空母。米国の介入をはねのけるだけの自信もあったはずだ。
しかし、自信は2026年に入って打ち砕かれた。2026年1月、米軍はベネズエラの大統領を拘束。ベネズエラは中国製の最新防空レーダーを導入していたが有効に機能しなかった。2026年4月のイラン攻撃でも、イランがF-15E戦闘機を撃墜したものの、米軍が敵地から空軍士官2人を救出する離れ業をやってみせた。
10年後はわからないが、現時点で米中における兵器やオペレーションの差は大きい。その現実を見せつけられて、習近平総書記は軍事による台湾統一を棚上げせざるをえなくなった。
一方、経済的な締めつけはすでにやっているものの効果がない。台湾の事業家は民進党政権下でも大陸と緊密な関係を結んできた。鴻海精密工業は鄭州や成都でアップル製品をつくるために100万人近い人を雇っているし、TSMCは南京や上海で半導体をつくっている。統一か独立かにこだわらずに「あるがままの台湾」を磨き上げ、中国から必要とされる存在へと成長してきたのだ。
10年経てば中国の軍事力が米国に追いついて実力行使に出る可能性はあるが、習近平総書記は現在72歳。環境が整うまでにタイムアウトになる公算が大きい。台湾有事は結局起きず、あるがままの台湾が続くのではないか。
当事者同士がその道を選ぶなら、日本が横から口を挟む必要はない。台湾から求められれば支援すべきだが、その前に台湾有事について積極的に発言するのは中台の緊張をいたずらに高めるだけであり、何ら利益はない。静かに見守るべきだろう。
※この記事は、『プレジデント』誌 2026年5月29日号を基に編集したものです。
大前研一
プロフィール マサチューセツ工科大学(MIT)大学院原子力工学科で博士号を取得。日立製作所原子力開発部技師を経て、1972年に経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク入社後、本社ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を歴任し、1994年に退社。スタンフォード大学院ビジネススクール客員教授(1997-98)。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)公共政策大学院総長教授(1997-)。現在、ビジネス・ブレークスルー大学学長。豪州BOND大学教授。