この論文から学ぶべき「大前研一メソッド」
<「戦略の正しさ」と「統治の失敗」を別軸で評価する>
鈴木敏文氏の経営は、二つの軸で分解できる。
・戦略 → 正しい(コンビニ革命)
・統治 → 失敗(創業家との対立、後継問題)
経営は「戦略」と「ガバナンス」で評価せよ。経営は立体的に観察する必要がある。
セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文名誉顧問が、2026年5月に心不全で亡くなりました。鈴木氏は日本にコンビニ業態を定着させた最大の功労者であり、メディアも称賛一色でその死を悼んでいます。ただ、「功績が100ある一方で、20ほど減点すべきところもあった」とBBT大学院・大前研一学長は振り返ります。「誰もそのことを指摘しないのはバランスに欠ける」という大前学長の指摘を受け、あえて「光と影」の影の部分にも触れて鈴木氏の経営を立体的に振り返ります。
大前研一(BBT大学大学院 学長 / BOND大学教授 / 経営コンサルタント)
編集/構成:mbaSwitch編集部
まずは光からだ。鈴木氏の功績を一言で言えば、コンビニ業態を日本で独自に発展させたことである。
セブン-イレブンは米国発祥のコンビニチェーンだ。1973年、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊氏がサウスランド・カンパニーから日本での運営ライセンスを取得。新事業の担当者として指名したのが、当時取締役だった鈴木氏だった。今でこそ米国のセブン-イレブンは日本と大差なくなったが、私が米国にいたころは道路端で駐車場がありスーパーに行く時間のない人が駆け込む存在に過ぎず、取り立てて便利とは言えない業態だった。米国での業態をそのまま日本で展開していたら、今ほどは広がっていなかっただろう。
鈴木氏は、コンビニの商圏を半径250mの円に設定。単身者が冷蔵庫がわりに食品を買う店として位置づけて、おにぎりやお弁当を充実させた。さらに24時間営業を標準化。このモデルが、残業で夜遅くまで働くことがあたりまえだった都市生活者にウケて広がっていった。また郊外では大面積の駐車場をつくってトラックなどの運転手が用を足したり食事をしたり仮眠をしたりできるようにした。こうした日本独自のコンビニ文化をつくっていったのは、大きな功績である。
もう一つ、1980年代に野村総合研究所や日本電気(NEC)と組んで、日本で初めてマーケティングへの実用化を目的としたPOSシステムを構築し、棚割りや発注を数値で単品管理するようになったことも画期的だった。メーカーが力を入れている商品でも売れなければすぐ棚から外されるため、メーカーと小売りの力関係が逆転した。
商品の単品管理ばかりではない。鈴木氏は店舗を自ら巡回するタイプの経営者ではなかった。コンピュータからプリントアウトした各種数値を見ながら経営判断をしていた。いわばデータドリブン経営の先駆けであり、その点でも新しい時代をつくった天才経営者だった。
これらの輝かしい功績に隠れているが、鈴木氏には惜しい点が一つあった。創業家との関係が良くなかったのだ。
伊藤氏は鈴木氏に優るとも劣らない名経営者だった。実はマッキンゼーで私が働いていたころ、イトーヨーカ堂からコンサルティング案件の仕事を受注しようと伊藤氏にアプローチしたことがある。その縁で仲良くさせてもらっていたが、結果的に仕事には結びつかなかった。なぜなら、自社が何をすべきかという構想を自身でしっかり描いていたからだ。会社にお邪魔すると、伊藤氏はいつもA3用紙を広げて私に見せてくれた。その用紙には自社に加えて米ウォルマート、仏カルフール、そして日本のダイエーといった競合の店舗数や売上高、資産などの経営指標が手書きで書いてある。それを示して、自社のどこに優位性があるのか、逆に自社に何が足りないかを語るのだ。
GMS(総合スーパー)の雄だったダイエーの創業者、中内功氏とは対照的だった。中内氏は徹底した現場主義自ら店に足を運んでマイクロマネジメントする。中内氏に誘われて同社が開業したレストラン「フォルクス」でご馳走になったことがあるが、その場で末端のスタッフを叱りつけていて居心地の悪い思いをした。
それに対して、伊藤氏は数値をあげ大きな構想を語るタイプだった。ダイエーには規模で水をあけられていたが、「ダイエーは立地重視で、いい場所があれば借りてでも店を出す。うちは資産重視で土地を取得。地価は上がるから、長い目で見ればそれが強みになる」と話していた。実際、バブル崩壊までは目論見通りに資産が伸び、それを担保に攻めの投資ができていた。
また、伊藤氏はGMS以外の業態を模索して世界にアンテナを張ることも忘れなかった。そのアンテナに引っかかってライセンスを取ったのが、セブン-イレブンやファミレス「デニーズ」だった。鈴木氏は新しいコンビニ文化をつくったが、それはライセンス取得の巨額投資を決断した伊藤氏がいたからこそ実現した偉業なのである。
その意味で、鈴木氏は伊藤氏に足を向けて寝られないはずである。ところがセブン-イレブンの成長に気を良くしたのか、いつのまにか創業家の追い落としに躍起になってしまった。
表面化したのは1992年だ。総会屋への利益供与事件でイトーヨーカ堂の役員らが逮捕されて、伊藤氏は引責辞任に追い込まれた。ここで鈴木氏は伊藤氏を擁護することもできたはずだが、そうしないで自身が社長に就いた。伊藤氏は社長退任後も本社に自分の部屋があった。近所に事務所があった私はたびたび呼ばれて伊藤氏の描く構想を聞きに行っていた。表舞台に立つことはなくなっていたが、事業への思いは衰えていなかった。
しかし、鈴木氏は創業家へのパージを強めていく。2005年に持ち株会社制に移行し、社名をセブン&アイ・ホールディングスに。公式には、セブンは主要な7つの事業領域、アイは革新(イノベーション)の「i」と「愛」を意味するという説明だったが、私には映画『The King and I』(邦題『王様と私』)のごとく、鈴木氏が「セブン-イレブンと私(I)」と高らかに宣言したようにしか聞こえなかった。自身の子を入社させて要職に就けたこともいけなかった。王権を継承させようとすれば創業家も黙ってはいない。次世代の争いでは創業家に軍配が上がり、結局、鈴木氏自身もクーデターに近い形で2016年に失脚してしまった。
社内抗争の代償は大きかった。社内を分断しただけではない。セブン-イレブンの強みであるシステムは野村総研がほぼ一手に引き受けていたが、次世代争いの結果、マルチベンダー体制に。みずほ銀行は、ベンダーが寄り集まってシステムを構築したために混乱して障害を引き起こしたが、セブン-イレブンでも似た状況になり、2019年のセブンペイは3ヵ月で廃止の大失敗に終わっている。
システムでもたつくうちにローソンやファミリーマートが伸びてきて、セブン-イレブンは絶対王者という状況ではなくなってきた。勢いが陰ってきた原因を鈴木氏の失脚に求める声もあるが、鈴木氏が続投していてもいずれバトンを次世代に引き継がねばならなかった。円滑な継承ができずに混乱を引き起こした責任は、火種をつくった鈴木氏にあることは明らかだ。しかし鈴木氏には創業家を立てる品性が足りなかった。私が手放しで称賛できない理由はそこにある。経営手腕は間違いないだけに、その点だけが惜しまれる。
コンビニ業界の未来はけっして明るくない。都会では飽和状態で、出店の余地がない。すでに取り込めるサービスは取り込んでおり、新サービスの展開も望めない。一時、冷蔵庫がわりどころか食堂化を目指してイートインコーナーの設置が相次いだが、管理の負担が大きく、わが家の近所の店舗はイートインを閉鎖してしまった。
売り上げの成長余地が小さいならコストダウンに走るしかない。ただ、人件費を抑えるためのセルフレジがどこまで普及するのかは不透明だ。米アマゾンが鳴り物入りで展開した無人決済型コンビニ「アマゾン・ゴー」は2026年1月に全店舗撤退を決めた。日本ではなおさら難しいだろう。
人口減少が激しい地方も厳しい。しかし、厳しい環境ゆえに打つ手はまだある。同じく衰退していくガソリンスタンドと一元化して、地域の基幹インフラにするのだ。地方は車社会だが、ピークで6万ヵ所以上あったガソリンスタンドの数は今や3万ヵ所を切った。それで困るのは運転免許証を自主返納したお年寄りだ。ガソリンスタンドは電話で注文を受けて灯油を届けるサービスを始めて、地域を支えているが、それにも限界があるだろう。
幸い地方のコンビニは駐車場が大きく、空間的にはガソリンスタンドを吸収できる。問題はガソリンスタンドで販売できるものを厳しく制限する消防法だが、規制緩和して一元化すれば、生活弱者に灯油と一緒にお弁当を届けるといったサービスが可能になる。広いスペースを生かしてEV(電気自動車)充電スポットを併設してもいいし、インバウンド向けの観光案内所の機能を持たせれば、英語ができても仕事がない地域の若者たちに雇用を提供できる。こうした機能を集約すれば、コンビニが地方の救世主になれる可能性もある。
都会でも地方でも、かつてのコンビニモデルは耐用年数を迎えつつある。バトンを引き継いだ経営者らは、鈴木氏の遺産を超えるビジョンを描かなくてはいけない。それが名経営者への何よりの手向けになるはずだ。
※この記事は、『プレジデント』誌 2026年7月17日号を基に編集したものです。
大前研一
プロフィール マサチューセツ工科大学(MIT)大学院原子力工学科で博士号を取得。日立製作所原子力開発部技師を経て、1972年に経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク入社後、本社ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を歴任し、1994年に退社。スタンフォード大学院ビジネススクール客員教授(1997-98)。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)公共政策大学院総長教授(1997-)。現在、ビジネス・ブレークスルー大学学長。豪州BOND大学教授。